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すべての宗教は、同じ一つの歌を歌っている 相違は幻想と空虚に過ぎない ールーミー
ドイツの文豪ゲーテは、イランの詩人ハーフェズ(1325/26~1389/90年)を精神において「双子の兄弟」とも形容した。ハーフェズの詩のテーマは「愛」だが、異教のキリスト教への想いを次のように表現している。
愛は栄光の降るところ
汝の顔より 修道場の壁に
居酒屋の床に、同じ
消えることのない焔として。
ターバンを巻いた修行者が
アッラーの御名を昼夜唱え
教会の鐘が祈りの時を告げる
そこに、キリストの十字架がある。 ―ハ―フェズ
http://www.smile-kai.com/report/20141127umezu5.pdf
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アフガニスタン・バルフ近郊出身の詩人・スーフィーであったルーミー(1207~1273年)は、自らが語る言葉について「人の住むところ、平和の村からやってくる」「あらゆる人を愛するのだ。そうすれば常に花咲く花園にいられる」と語り、平和と愛をその作品の中で数多く表現した。
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ルーミーの作品には宗教の枠を超えた普遍精神や、他宗教に対する理解や寛容の心が貫かれている。イスラム思想史研究の竹下政孝氏は、これらはモーゼやイエスを預言者として認めることはもちろんのこと、他の各民族にも預言者が送られたと考え、これら多くの預言者の教えは、ムハンマドのもたらした教えと同じであると説くイスラムの原理に最も忠実なものと述べている。イスラムはこのように寛容や中庸の道を説いている。他宗教を攻撃し、また少数宗派に暴力をふるうのはイスラムの本来の教えとは明らかに異なる。ユダヤ教でも律法に記された社会正義、他者への慈愛、倫理、道徳を神の意志としてとらえ、実践することが神への忠誠を表明すると考えられている。
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イスラム教徒、ゾロアスター教徒、ユダヤ教徒の違いは、
依って立つ位置の違いに過ぎないことが理解できよう。 ―ルーミー(西田今日子訳)
イスラム神秘主義の詩的世界は13世紀に黄金期を迎え、スペイン・ムルシアで生まれたイブン・アラビー(1165~1240年)、ルーミー、ユヌス・エムレ(トルコの国民的詩人:1238~1328年)などの優れた神秘主義思想家が活躍した。
「私は愛の宗教を告白する。愛のラクダがどこに向おうとも、愛こそ私の宗教であり、私の信仰である。」―イブン・アラビー
「あなたがなすべきなのは、愛を探すことではなく、あなたの中で愛に対して築いたすべての障壁をただ求め、見つけ出すことなのだ」―ルーミー
「私は争うために この世に生を受けたのではない
愛することこそ わが人生の使命である」―ユヌス・エムレ
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イスラエルの極右勢力はユダヤ教こそが最善の宗教と考えているようだが、ドイツ啓蒙思想の代表的な人物であり、詩人、劇作家、思想家のゴットホルト・エフライム・レッシング(1729~1781年)の劇詩「賢者ナータン」(1779年刊)は、第三次十字軍が終わった12世紀末のエルサレムを舞台とし、ユダヤ教、キリスト教、イスラムの相互の寛容や人類愛を説いている。十字軍を駆逐したイスラム世界の名将サラディンの「ユダヤ教、キリスト教、イスラムのいずれが真の宗教か?」という問いに対して、富と知恵をもつユダヤ人商人ナータンは、有名な三つの指輪のたとえ話を通じて、この問いが無意味であることを説く。
その指輪のたとえ話とは次のようなものだ。
ある男は持ち主が神と人から愛される不思議で、特別な力をもつ指輪をもっていた。その指輪は家父長になるにふさわしい、人徳をもった、父親から最も愛された息子に引き継がれていった。しかし、指輪が受け継がれていくと、ある父親には3人の息子がいて、父親はどの息子も等しく愛していた。父親は臨終が間近になると、特別な力をもつ指輪に似せて二つの指輪をつくり、それを息子たちに与えた。息子たちはそれぞれ自分たちがもつ指輪こそが本物の特別な指輪であり、自分が父親の跡を継ぐことを主張したために、争いになってしまった。
この争いを調停する裁判官は神からも人からも愛される指輪の持ち主がこのように争ってはならないと語り、それぞれの息子たちは柔和な気持ち、善き行い、神への心からの帰依によって指輪が特別な力をもち、代々受け継がれてきた指輪になるように努めなさいと語る。
その時、ナータンは、三つの指輪のどれが本物か言えないのはユダヤ教、キリスト教、イスラムのどれが真の宗教であるかと言えないのと同様であると語る。神の目から見れば、三つの宗教とも等しく真理を伝え、大事なことは指輪と同じように、信徒たちがいかに穏やかな心、善行、神への心からの帰依によって宗教を実践するかにある。ナータンは、宗教相互の愛と理解が必要であることを説き、またユダヤ教、キリスト教、イスラムが互いに争うのではなく、それぞれが真実の道であるように心がけ、努力し続けていくことこそが重要であると考える。
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