重大な人権侵害である「冤罪」 ―袴田事件と古今東西の事例は冤罪の非人道性を訴える
26日、静岡地裁での再審(=やり直し裁判)で袴田巌さんに無罪の判決が下りた。この事件については静岡地裁の元判事が信念に反する判決書を書いたとことを告白し、袴田さんの無罪を涙ながらに訴えた。真実はすぐそこにあるように思えたにもかかわらず、事件発生から無罪判決までに58年もかかった。また、疑わしきは罰せずの大原則にもかかわらず検察は死刑を求刑し続けた。弟の無実を信じて疑わず、法廷での闘争を続けた姉のひで子さんの苦労はいかばかりであったろう。弟を思いやる彼女の努力がなければ今日の無罪を勝ち取ることはできなかった。
日本ではこの種の冤罪が絶えない。1997年の東電女性社員殺害事件でネパール人のゴビンダ・プラサト・マイナリさんに無期懲役の判決が確定したものの、2012年11月に無罪判決が言い渡された。マイナリさんは袴田巌さんほど長期ではないが、無実の殺人罪で15年間も刑務所で暮らした。警察は、マイナリさんに対して日常的に拷問や虐待を繰り返し、弁護士との接見を妨害した。現在の日本で拷問などが行われたのは信じられない思いだが、日本の警察当局の外国人に対する差別や偏見が冤罪をつくり出したようで、日本の「恥」を世界にさらけ出した。
世界史上で有名な冤罪事件はフランスのドレフュス事件で、ドレフュス事件は1894年に始まり、1906年まで継続した。1894年夏、フランス軍参謀本部からパリのドイツ大使館に送り込まれたスパイが、フランス陸軍の人物が書いたと思われるフランス軍の機密に関する文書を発見した。参謀本部付の砲兵隊大尉アルフレッド・ドレフュス大尉は、10月13日に逮捕され、1894年12月に軍の機密を敵対するドイツに漏洩した国家反逆罪として終身刑の有罪判決を受け、南米のフランス領ギアナ沖にあるディアブル島(悪魔島)に収容された。
彼が疑われたのは普仏戦争でドイツに奪われたアルザス地方出身のユダヤ人であるという理由が大きかった。差別や偏見が冤罪をつくり出すと主張される点では、日本にもいまだに決着していない狭山事件がある。1963年5月1日に下校途中の女子高生が誘拐され、身代金20万円が要求された。翌2日、身代金の受け渡しの日だったが、警察は取り逃がすという失態を演じ、同月4日に女子高生の遺体が発見された。同じ月の23日に別件逮捕で非差別部落出身の24歳の青年が逮捕された。社会で差別を受けている人間が犯人にされたという点でドレフュス事件、あるいは狭山事件や袴田事件に似通っている。
ドレフュス事件で冤罪を体験したユダヤ人だったが、現在ユダヤ人の国イスラエルでは、組織的な冤罪とも言うべき行政拘禁が絶えることはない。パレスチナでは男性人口の実に40%が拘禁されたり、投獄されたりした経験がある。イスラエルの刑務所には常に数千人のパレスチナ人たちが収容されている。投石しただけでも最低3年、最大20年の刑が科せられる。イスラエルの行政拘禁はイスラエルの人権団体ブツェレムによれば、裁判や起訴なしに、ある人物が将来の罪を犯す計画があるという理由で行われる。被拘禁者の80%近くは、6カ月以上拘禁される。イスラエルは安全を優先して投石のような微罪でも行政拘禁を行う。
他方パレスチナ人は当然のことながら異様に厳格な拘禁から解放されることを切望するが、長期にわたる拘禁の場合はいっそうその思いは強い。パレスチナ人の抵抗のシンボルとも言えるマルワン・バルグーティ(1959年生まれ)は2004年6月にパレスチナ人のインティファーダ(蜂起)を扇動したなどの罪で終身刑5回と禁固40年(求刑終身刑5回)を受けている。気が遠くなるような刑期で、バルグーティは「パレスチナのネルソン・マンデラ」とも形容されるが、バルグーティは彼に判決を下した軍事裁判の正当性を認めず、判決はまったく根拠のないものだとしている。
昨年10月7日のハマスの奇襲攻撃(上川外相などは「テロ」と非難するが)は、突如起こったものではない。長年にわたるイスラエルの経済封鎖、いっこうに上向かないガザの経済状態、イスラエルによる国際法違反の行為、米国のイスラエルに対する偏った支援など、長年の不合理への反発として起きたことを、日本をはじめ国際社会は知っておかなければならない。