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【国民に守る義務はない?】知らないとヤバい憲法の話を専門用語なしで解説しました

こんにちは。
弁護士の宮田です。

今回は、「知らないとヤバい憲法の話」をしていこうと思います。

憲法というと、国にとって一番大切な法なわけですが、残念ながらいまの教育では憲法のついて学ぶ機会がほとんどありません。

あったとしても、

「国民主権・平和主義・基本的人権の尊重!!」

といったことを丸暗記して、テストで100点取りましょうといったことで終わってしまっている印象を受けます。

確かに上の3つのことも昔の憲法(明治憲法)と今の憲法との比較では大切なのですが、

実は知っておかないとヤバい部分はもっと他のところにあります。

そこで、今回は弁護士であるわたしの視点から、専門用語は使わず、知っておかないとヤバい憲法の話というのをしようと思います。

この記事を読んでもらえると、

そもそも憲法とは何なのか、誰が守る必要があるのか、いまの憲法がもっとも大切にしていることは何か、憲法改正案に問題がないのか

といった、より深いレベルで憲法を理解することができるかと思いますので、ぜひ最後まで読んでください!

|この世には多数決でも奪えないものがある


少し長いですが、まずはこんな事例について考えてみてください。

政府はさらなる増税をしようとしたところ、ネットでは政府を批判する投稿が相次いだ。そこで、政府は「政府を批判する投稿をしたものは死刑!」という法律を国会の多数決で決めてしまった。そんな法律は理不尽だという声が出たが、「選挙で選ばれた我々の多数決で決まった以上は絶対だ!」と政府は言い放った。

さて、皆さんはこの法律についてどう思うでしょうか?

講演などで憲法のはなしをする際には必ずこうした事例を話すのですが、皆さん意見はまちまちです。

「死刑というのはやりすぎな気がするけど、確かに選挙で選ばれた人が決めたのだからある程度は仕方がないのではないか。」

「政府の意見が正しいと思う。」

「そんなことは憲法に反するからダメなんじゃないか。」

いろんな意見が出ます。

しかし、結論を言うと、最後の人の意見が正しく、こんなメチャクチャな法律は、憲法に違反していて認められません。

「多数決で決まっていることなのにおかしい!!」

「民主主義に対する冒涜だ!!」

そんな感想を持つ人がいるかもしれません。

しかし、

たとえ多数決で決まったことだとしても、憲法というルール界のボスに反していたら、それはルールとして認められないのです。

これが憲法の非常に大切なところです。

「どんな経緯で作られたものあっても、自分に反するものならば、絶対に認めない。」

そんな絶対無敵の王様のような存在が憲法なのです。

ルール界の王様というわけです。

上の事例の法律について考えてみましょう。

税金問題について政府の批判を禁止するということは、憲法に規定された「表現の自由」という人権を害してしまっています。

そのため、上記の法律は憲法という王様に反するということになりますので、認められないというわけです。

憲法:「われおれの規定に反してるやないかい」

憲法:「出直してこいや」

という感じになるのです。

たとえ国民から選ばれた国会の多数決で決まったとしても憲法という王様には歯向かえない。

これが憲法の非常に大切な性質なのです。

「多数決で決まったことならばその民意を反映する方がいいのに。」

「煩わしいものだなあ。」

もしかしたらそう思う人がいるかもしれません。

しかし覚えておいてください。

歴史を見ても時に多数派というのはとんでもない方向に進んでいってしまうものなのです。

現に、想像を絶するような残酷な方法でユダヤ人の虐殺を行ったナチスドイツも、国民の多数に支持をされてそうしたことを実行してきました。

一部の頭のおかしな人が勝手にそうしたことを実行してきたのではなく、国民の多数派の支持を背景にそうしたことが行われたという歴史があるわけです。

このように、「ときに人間はとんでもない暴走をしてしまう」ということを自覚したうえで、たとえ多数決であっても奪えない大切なものを決めておく。

こうした発想が憲法の背景にはあるわけです。

ぜひ覚えておいてください。

【悪法は法ではない】
よく学校の先生が「どんなルールでもルールである以上は絶対だ!」みたいなことを言っていると思いますが、そういう先生には、「ルールであっても、より偉いルールに反していれば認められません。」と意見するべきでしょう。今の時代、悪法は法ではないのです。
学校の校則なんてのは、根拠のないものも多く、一人一人の「表現の自由」や「自分のことは自分で決める権利」を害しているものもたくさんあると考えられます。
ぜひ一人一人が正しい声をあげて校則の改革にも取り組んでほしいです。


|【最重要】国民には憲法を守る義務はない


憲法というものを考えてるときに、もう一つ非常に大切なことがあります。

ここは本当に重要なことです。

みなさんは憲法って誰が守らないといけないか知っていますか?

「いやいや、そんなの国民全員に決まってるだろ。」

「馬鹿にするな。」

そんな声が聞こえてきそうです。

実際に講演会でアンケートを取っても、ほとんどの人がそのように答えます。

ですが、実はこれは大きな間違いです。

どういうことか。

実は、一部の例外を除いて国民には憲法を守る義務なんてないのです。

これは意外なんではないでしょうか。

このことは法学部を出た友人に言っても驚かれることがあります。

ですが、これはなにもわたしが激ヤバ思想を持って勝手に布教していることなんかではなく、しっかり憲法上に定められていることなんです。

実際に見てみましょう。

〔憲法尊重擁護の義務〕
第99条 天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。

日本国憲法より

こちらは誰が憲法を守る義務を負うかについて定められた条文です。

ですが、国務大臣・国会議員・公務員など権力側の人は出てきても「国民」という言葉はどこにも出てこないのです。

「こんなのはおかしい!」

「日本国民である以上は自国の憲法を守るのが当然だ!」

そんなことを言い出す人も中にはいるみたいですが、

残念ながら憲法というものは国民ではなく、権力側が守るべき性質のものなのです。

これは憲法が成立してきた経緯を見れば明らかです。

憲法というものはもともと、

メチャクチャなルールばかり作ってくる国王などの権力者に「頼むからこれだけは守ってくださいや・・・」と、最低限守ってもらうことを定めたものとして成立してきました

勝手に持ち物を没収されるルール、同意もなくメチャクチャに課される税金、不公平な裁判、理不尽に繰り広げられる拷問・・・

そんな怖い世の中があったわけですが、そうした遥か昔に、最低限の守るべきことを「権力者側」に約束させたもの。

それが憲法の始まりでした。

「権力者まじでえぐいルールばっかり作ってくるやん・・・」

「あいつらメチャクチャやって・・・」

「お願いやからこれだけは守ってくれや・・・」

こんな感じです。

憲法というのは、法律とは全く性質が異なるものとして成立してきたのです。

法律というのは、

権力者側がわたしたちのような国民に対して「あれをしてはいけない。これをしなさい。」と命令をしてくるようなものです。

これに対して憲法というのは、

わたしたちのような国民が権力者側に対して、「これだけは守れ!!」と命令する性質のものなのです。

権力者という時に凶暴なものを縛っておく鎖。

それが憲法の正体なのです。

そして、そうすることによって権力者が暴走することを防ぎ、一人一人のかけがえのない権利や自由を守ろうとしているのです。

これが憲法の根底にある考え方です。

一番初めに見た「政府を批判したら死刑にする」という事例においても、憲法で権力者をあらかじめ縛っておけたからこそ暴走を止めることができたわけです。

憲法とは、権力者をあらかじめ縛っておいて、国民1人1人の自由や権利を守ろうとする鎖のようなもの。

非常に大切なことなので、ぜひ覚えておいてください。

【権力の暴走とファッション憲法】
今を生きるわたしたちは権力に対して凶暴なものといったイメージは湧きづらく、それを縛っておくということの意味が分かりづらいかも知れません。
けれども、歴史を見ると、たった80年ほど前には、権力が暴走して普通に暮らしている人々が戦争に駆り出されて、「お国のため」という理由で犠牲になってきたわけです。
この時の憲法(明治憲法)は、今の憲法のように権力を縛るということが十分でないスッカスカの憲法だったため、悲惨な事態となってしまったのです。
こうした中身のないスッカスカの憲法のことをわたしは「ファッション憲法」と呼んでいます。いま憲法改正がホットな話題ですが、かつてのような「ファッション憲法」にならないようには注意しておく必要があるでしょう。

|個人の尊厳という考え方が1番大切


・憲法はルールの王様であるから、たとえ多数決で決まったことでもそれに反していたら認められない

・憲法というのは、権力者を縛って一人一人の自由や権利を守るためのもの

そうした仕組みについて書いてきましたが、そうしたことを通じて憲法が守ろうとしている最も大切な価値とは何なのでしょうか。

それは、「個人の尊厳」という価値です。

個人の尊厳とは、1人1人の個人を主役とし、国や家などの集団は個人を輝かせるための装置にすぎないと考える、集団ではなくて個人に重きを置いた考え方のことです。

いまいちピンとこないかもしれませんが、その反対にある考え方を考えればもう少しイメージが湧くかもしれません。

そうした個人に重きを置いた考え方の対にある考え方、それは「集団主義」という考え方です。

集団主義とは、それぞれの個人ではなく、あくまで国や家などの集団を主役とし、個人をその集団を発展させるための道具、いわば部品と考えるような考え方です。

それこそ、戦前の日本のように、それぞれの個人のことではなく、「お国のため」ということを重視していた社会は、集団主義そのものだったといえます。

こうした集団主義の社会においては、個人は集団を発展させるための道具・部品にすぎず、1人1人の個人の幸せに重きが置かれるなんてことはありません。

現代の憲法が守ろうとしているもっとも大切なことは、こうした集団主義を捨て去り、個人こそが人生の主役だとする個人の尊厳という考え方を貫くことなのです。

こういう話をすると、

「そんな考え方をすると、自分のことばかり考えて社会のことを考えない人間になる。」

「わがままな人間を育てるだけだ。」

みたいなことを言い出す人が必ず出てきます。

ですが、そうした人が言っているのは、いわゆる利己主義という「自分のことだけしか考えない」という全く別の考え方のことです。

これと個人の尊厳というのは全く異なる話です。

ここは非常に大切なところです。

個人の尊厳とは、繰り返しになりますが、集団ではなくて個人を主役とし、集団は個人を輝かせるための装置にすぎないと考えることです。

あくまでもどちらが主役で重きを置かれるべきかという話であって、まわりのことなんて完全に無視しろという話では全くありません。

この点はよく誤解されることなので、注意してください。

このように、現代の憲法は、個人の尊厳という価値をもっとも大切にしているのです。

ぜひ覚えておいてください。

【現代にもはびこる集団主義】
終戦後にできた新しい日本国憲法が「個人の尊厳」をもっとも大切な価値としたことは、戦前の日本ではとにかく「国」とか「家」とかの集団に重きが置かれていたことを改めるためでした。
ですが、今の日本社会を見るとどうでしょうか。
家族については、いまだに特に田舎の方では、「◯◯家の長男が云々」「一家の大黒柱として云々」などと個人ではなく家にフォーカスがされた価値観が残り続けているように思います。
わたしも田舎の方出身で、そうしたことを言われることがどれほど本人にとって苦痛かということを嫌というほど経験してきました。
学校に目を向けても、「学校の風紀を乱さないように」「◯◯高校の生徒としての自覚」「まわりに迷惑をかけてはいけない」などと、とにかく集団に重きが置かれた教育がまかり通っています。
こうした価値観は集団主義の名残りであって、いまの憲法の価値からは遥か遠いところにあるものと言わざるを得ません。
1人1人がしっかりと自覚して価値観の転換を図るべきでしょう。

|個人の尊厳を守るために憲法にはさまざまな人権が規定されている


これまで見てきてような個人の尊厳という考えのもとでは、個人こそが主役なわけですから、

何が幸せな人生で、どうやって人生を歩んでいくかは、ほかでもない1人1人の個人が決めるということになります。

比較のために書いておくと、

集団主義の世の中においては、そうしたことは国や家などの集団が決めるものでした。

「お国が戦争で勝つため」

「◯◯家の発展のため」

1人1人の個性や考え方は二の次で、個人はそうした集団の目標実現のための人生を歩むわけです。

しかし、個人の尊厳を採用した世の中では違います。

「何が幸せなのか。」

「その実現のためにどうやって生きていくか。」

その判断のすべては1人1人の個人に委ねられているのです。

生まれも身分も性別も関係ありません。

1人1人の個人が人生というストーリーの主役というわけです。

ある人はスポーツを極めて自分の能力を高めていくことに幸せを見出してアスリートの道を歩み、

ある人は料理の研究が好きなので料理研究家の道を歩み、

ある人は多くの子どもを育てることが幸せと思い家庭を支える道を歩む。

その全てが正解で、どういった人生が幸せで、どういう人生を歩むのかは個人が決定するのです。

日本国憲法もその13条で、「全ての国民を個人として尊重すること」、そして、「全ての国民に幸福追求権を保障すること」を定めて、その後押しをしているわけです。

そう思うと、憲法って結構いい奴じゃないですか?

〔個人の尊重と公共の福祉〕
第13条 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

日本国憲法

そして、憲法は幸福追求権という漠然としたものを定めるのみならず、13条より後の条文では、それを具体化した人権がカタログのように規定されています

ある人にとっては人前で意見を発表することが大切でしょう。

これは表現の自由という21条で定められている人権です。

またある人にとっては憧れの仕事に就くことが大切かもしれません。

これは職業選択の自由という22条で定められている人権です。

ほかにも自分の信じる神様を信仰することが大切な人もいます。

これは信教の自由という20条で定められている人権です。

そのほかにもたくさんの人権が憲法には定められているわけですですが、

そうしたものはどれも、1人1人の個人が自分の人生を自分で選んで生きていくために必要不可欠なものなのです。

そして、冒頭の死刑の事例のように、権力者がそうした人権を破ろうとした場合には、憲法が登場してルールを認めないというわけです。

憲法:「ちょっと待て」

憲法:「それは憲法に書いてある人権に反するから俺が認めない」

憲法:「そんなものを認めたら個人の尊厳が台無しになるだろ」

そんなイメージです。

憲法は誰にも媚びない番人みたいなものなのです。

あらかじめ「1人1人の個人が自分の人生を自分で選んで生きていくために必要不可欠な権利」をカタログのように規定しておき、それを権力者が破ろうとしたらそのルールを無効化する。

それによって、1人1人の自由や権利を守って、個人の尊厳というものを確立する。

これが憲法が描くストーリーなわけです。

ここまで来たらだいぶ憲法というものの正体がわかってきたのではないでしょうか。

ぜひこうしたことも覚えておいてください。

【自民党改憲案のレビュー】
現在の日本国憲法13条は「すべて国民は、個人として尊重される。」と規定されています。これはここまで再三説明してきたように、「個人の尊厳」を前提として、国民それぞれを「個人として」尊重することを宣言するものです。
しかし、現在話題となっている憲法改正議論において、自民党の改憲案を見ると、この13条は「全て国民は、人として尊重される。」となっています。
個人の尊厳というのは集団主義への決別のための考え方だったわけですが、そこをあえて「人として」と改めることは集団主義的な発想に戻りたいのかなと疑ってしまう部分があります。
わたしは特に支持政党があるわけではありませんし、政党批判をするつもりも毛頭ありませんが、いち弁護士としてはこうした憲法上の歴史に逆行する改正案に対しては違和感があるというのも否定できません。

|まとめ


これまで「知らないとやばい憲法の話」ということで、憲法の本質、憲法が描いているストーリーの話をしてきました。

憲法とは、権力者側をあらかじめ縛っておいて、国民の自由や権利を守ろうとするもの

・そして、憲法に反するルールは認められない。

・憲法はそうしたことを通じて、個人の尊厳を守ろうとしている。

・そのために日本国憲法はたくさんの人権をカタログとして規定している。

これらについて理解いただけたでしょうか。

いま憲法改正の議論がホットになっていますが、やはりこうしたことを知らない状況で議論を進めるのは怖いことだと思います。

自衛隊の問題、天皇制の問題、緊急事態条項の問題、いろいろな問題がありますが、まずは憲法の基本的な理解があった上で議論が行われるべきでしょう。

こちらのnoteでは、今回の記事を憲法導入として、これからもっと具体的な話も更新していこうと思います。

同性婚、夫婦別姓、政教分離、ヘイトスピーチ、冤罪問題など

キリがありませんが時間の許す限り記事を作成していきますので、ぜひフォローをお願いしたします。

また、今回の記事の内容をもとにした講演会も行っていますので、ご依頼があればXのDMでお問い合わせください。

ではまた次回!



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