【小説】ヒコウショウジョ
「飛べるよ、君にも」
その日、彼女は屋上から飛んだ。
文字通り、“飛んだ”のだ。
長い金髪に不健康そうなメイク、マキシ丈まであるロングスカートのセーラー服、昭和のヤンキーを思わせるその姿は、公立の進学校では目立つ存在で、一度も話したことのない僕でも知っている。
しかし、だ。
彼女は決して、不良なわけではない。
レイラ・フィリップス。それが彼女の名前である。
その金髪も、父親がイギリス人、母親が日本人のハーフであるから天然もので、白人の血からくる白さと、純日本人とはいいがたいコーカソイドな顔立ちなのだ。スカートの丈がなぜ長いのかはわからないが、頭脳明晰、運動神経も抜群で、文句のつけようもない。
ただ、容姿のせいか、性格のせいか、彼女は周りから浮いていた。決して、仲が悪いとか、いじめられているとかではない。が、周囲とは距離があるように見えた。
そんな彼女が、校舎の屋上の、フェンスの向こう側にいた。
「ちょっ、待って、早まらないで!」
僕は慌てて彼女に駆け寄り、声をかける。
彼女はこちらを振り返り、首を傾げる。
「え?」
僕は思わず声を漏らす。
「なにを?」
澄んだ瞳で見つめられ、僕は目を泳がす。
「えっと…」
「ああ、そっか。ごめんごめん、そんなんじゃないんだよ」
困った様子の僕に笑いながら否定の言葉を口にする。
「ちょっと飛ぼうと思って」
僕の顔はさらに曇った、と思う。
「んー、言葉の通りにね、飛ぶんだよ」
「なんで死にたいの?」
「そうじゃなくて。空に飛ぶの。地面じゃなくて。だいたい、飛ぶっていうのに上じゃなくて下に行くっていうの、おかしくない?」
ケラケラと笑いながら、おかしなことを言う彼女に、僕は目を丸くする。
「おかしいかどうか言い出すと、君のその“なんで死にたいの?”って言葉もだいぶおかしいと思うけどね」
「死にたいんじゃないの?」
「うん」
「死にたいの?」
「うんん、死ぬ気がないほうの、うん」
「じゃあ、なんでそんなところにいるの?」
「先入観」
「え?」
「屋上の端にいる人、みんながみんな死にたい人だなんて」
「そうかな?」
「そうだよ」
「じゃあ、なにしてるの?」
「だからね、飛ぼうと思って」
「そうなんだ」
僕の心はもう、諦めて彼女の言葉を肯定する。
「信じてないな。仕方ない。見ててね」
そう言うと彼女は飛んだ。
地面に落ちることなく、それどころか、上へ、上へ、高く、高く、のぼっていった。羽も羽ばたかず。呪文を唱えることもせず。
僕は彼女を目で追うが、太陽の光が強く目に焼きつけてきて、その姿を見失ってしまった。
そのまま、あんぐりと口を開けたまま、空を見上げ続けていると、背中から声がする。
「どう?」
振り返れば、彼女はそこにいた。
「うん」
だらしなくあがったそれはそのまま頭を垂れる。
「うーん」
彼女は天に向かって、伸びをする。
「気持ちよかったー」
そのまま、体はうしろに倒れていく。
「あぶないっ」
とっさに彼女の手を取り、支えようとする。が、その目的を果たすことはできず倒れこみ、彼女の上に覆いかぶさってしまう。僕はすぐに彼女から離れて詫びをいれる。
「ごめんなさい」
彼女は首を傾げ、微笑む。
「ありがとう」
「え?」
「助けようとしてくれたんでしょ?だから、ありがとう」
「あ、うん、どう、いたしまして」
「でも、倒れたって頭をぶつけることはないから、これからは気にしないで」
「えっと、はい」
僕の頭はしばらく前から思考停止状態だ。
「難しいよね、ごめん、気にしないで、っていうの、気にしないで」
そんなふうに言う彼女はどこか哀しげに見えた。
「フィリップスさんは、天使なの?」
僕が告げると、彼女ははじけたように笑い、言葉を紡ぐ。
「なにそれ、口説いてるの?」
「あ、いや、そういうんじゃなくって」
「天使かー。君、おもしろいね」
興味深そうにするその視線を躱すように距離を取る。
「じゃあ、魔法使い?」
「どうかなー。あ、私、聞いたことがある、男の子って、30歳になると魔法使いになれるんだって」
「それは、みんなじゃない」
「そうなの?」
「そうじゃなくて、なんで飛べるの?」
「なんでだろー。なんでかな?」
「僕に聞かれても」
「君はなんで生きてるの?」
「え?」
「って聞かれるのといっしょなんだと思う」
僕はなぜだか、ハッとしてしまう。
「人はなぜ生きるのか、人はなぜ食べるのか、人はなぜ働くのか、人はなぜ子をつくるのか、人はなぜ老いるのか、人はなぜ死ぬのか」
“なぜ”が頭を駆け廻り、思考をかき乱していく。
「人はなぜ考えるのだろう」
なぜ考えるのか、なぜ考えられないのか。わからないまま、時間と彼女だけは歩みを止めない。
「考えれば考えるほどわからなくなることもあるのよね。考えれば答えがでるなんて思うのは傲慢だわ」
傲慢な僕はそれでもなにかを考えようとする。そう、傲慢と言われようと、考えるのはやめられないし、それを決めるのは彼女ではなく、僕なのだ。
「でも、傲慢だから悪いってわけでもない」
「僕の心、読めるの?」
「読めもしないし、聞こえもしない。もちろん、嗅ぐことだってできないよ?」
「負けました」
僕は敗北を宣言する。
「勝ちたかったわけじゃないんだけどな」
彼女は困ったように笑う。
この顔を、僕は以前に見たことがある。
高校1年生のとき。合唱コンクールがあって。本番直前に、クラスメイトから彼女に、髪の色に関して指摘があった。
彼女のそれは地毛であるため、それを説明するが、クラスメイトは“事情はわかったが、審査員にはそれはわからないから、スプレーで黒に染めさせてくれ”と言ってきた。
それに対して彼女は言った。
「校則では、髪を染めることを禁止しているだけで、黒くすることを強制しているわけではないはずです。もし仮に、審査員が私の髪色を理由に得点を低くするのであれば、糾弾されるべきは私ではなく、審査員でしょう?私が一時的に髪を黒くすることで“審査員が心証を悪くするかのしれない”という仮定をやり過ごすというのは、あまりに事なかれ主義ではありませんか?」
彼女にそう返されたクラスメイトたちは皆、黙りこんでしまい、しばらくして、一人が審査員に事前に説明することを提案し、その場を取りなした。
実行委員として近くにいた僕は、彼女が困ったように笑うのを見ていた。
それからだろうか、彼女が周りから浮いているように感じるのは。
「気分転換に、飛ばない?」
「え?」
僕は辺りを見渡す。
「誰もいないわよ」
彼女は口を尖らす。
「いや、僕、飛べないんで」
「飛べるよ、君にも」
「羽とか、ないし」
「私にもない」
「魔法使えないし」
「私も使えない」
「飛んだことないし」
「誰だってはじめてのときはそう」
「どうやって飛べばいいかわからないし」
「私だってわかんない」
「でも…」
「言い訳は終わった?準備はいい?」
「いいわけないよ」
「私が先に飛ぶから。そしたら、手を伸ばして」
僕が言葉を返す前に彼女は飛んだ。
ふわっと身体が宙に舞う。
「ほら」
僕は彼女の言うとおり、手を伸ばす。
彼女は僕の手を取り、叫んだ。
「飛んで」
僕はおもいっきりコンクリートを蹴り飛ばす。
すると、僕の身体は彼女を越えて、空へ跳ねあがった。
空へ吸い込まれそうになる僕を支え、彼女は笑い声をあげる。
「ほら、飛べた」
そのまま、僕たちは上昇して、雲を突き抜け、大地が真っ白に覆われた。
「手、離すよ?」
夢中になって下を見ていた僕に、彼女が声をかける。
その途端、急に恐怖心に支配された。
「大丈夫だよ」
恐怖のあまり、声がだせない僕は、代わりに手を強く握る。
彼女は困った顔して微笑んで、それ以上、なにも口にしなかった。
それから、どれくらいだろう、空を泳いだあと、屋上に戻った。興奮のためか、恐怖のためか、途中の記憶はあまりない。へたり込んだ僕の隣りで、彼女は黙って、体操座りをしていた。
やがて、落ち着きを取り戻した僕は彼女に尋ねた。
「夢じゃないよね?」
「どうかな」
「ここは天国だったりして」
「まさか」
「生きてる?」
彼女は僕の手を掴み、脈を取る。
「ドクドクしてる」
収まりかけた鼓動がまた高鳴る。
沈みかけた日の光がちょうど彼女の頭のうしろで眩しく輝く。表情は見て取れないが、きっと彼女は笑ってる。
僕はどうやら、彼女の手に落ちてしまったらしい。
「悪魔だったのか」
「誰が?」
「フィリップスさん」
そう告げられた彼女はきっと口を尖らしていたに違いない。
彼女の正体が天使か悪魔か、そんなことはどうでもよくて、僕は考えることを放棄して、告げた。
「もう一度、飛ぼう」