見出し画像

「うん、感情とか感動とかそういったものと哲学的な議論が不可分なものとしてみやおさんの中にある」

インターンをしています。春から入社する会社にて、アルバイトのようなものなのに、まだやりはじめて半月たっていないくらいなのに、それでもわたしの半分は商人みたいな顔をしている。

いつもふしぎな気持ちでいます。わたしはこれまで本のことをそのかたさや厚みや手触りというところから、そして深く読み込んだり時に投げ出したりして、あるいは慰みのものとして、掬い上げられるものとして、個人的な関わり合いや学術的な意義におったてられるようにして、そういう感じで認識していたのに、いま、デスクで梱包したりする本を〈品物〉と思っています。買う人のためにあるもの、会社のためにあるもの、わたしのためにあるのではないもの、でも誰か血をめぐらせてる人が待ち望んでいるもの、それはわたしがこれまで読んできたようではないものであるからかもしれないけれど、目の前にあるのにないような気持ち、数字といっしょに語られうるものとして見ている。そんなのってへんなの、と言われたらたしかにと思いながらだまって何も言わないでしょう、

そういうふしぎな気持ちで週に三日ほど働いて、あとはずっと働いてるカフェで給仕をしてる。コーヒーを運ぶ日々がもう続かないのはさみしいけれど、ずっと続けばいいのにと思ったことはそういえばないな。

本日は全き休日でした。ふわっと起きてアップルパイをつくって、自社の本を読んで、コーヒーをいれて、鶏肉をトマト味で煮ました。ぼうっとしてチェット・ベイカーやらラヴェルやらをききながらなんだかなあと思い、思い立って卒論の口頭発表の文字起こしをした。オンラインでやるとってもいいところは、録画されているというところで、わたしは何回も何回も見返した、わたしの発表やら応答をぬかして、先生の質問、講評のほうを見る、(自分の声というもの本当にきくにたえん、やーわーとさけびながらとばした)なんて幸福な時間だったのかと思って、これはもう失われているよと思って、見ている。

主査の先生のあの論が、どうしても忘れられなくて、それを基盤とした論になり、けれどその論の乗り越えのようなことをしたい卒論なのですねと副査の先生に指摘されうわっ、そうじゃん、きゃあとわたしは言った。口頭発表のとき、主査は、「どこかやっぱりねえ、あたしを大事にしすぎてる」と言って笑った。うぐっとなって弱い点を他にもたくさんたくさん指摘してくれながら、それでも先生は「あたしの中途半端な論をあなたはこえていったわよ」と言ってなぐさめた、そんなわけないが、そんなわけないなりに、やっぱりそう言ってもらえたら胸のつかえが少しとれる。そのまま、先生はわたしに尋ねた。

「これは卒論の枠を超えてしまうけれど、みやおさんのアクチュアルな問題観点として、川上弘美を論じるには便利な観点だ、という以上のものを、あなたはメルロ=ポンティに見出している気がするんだけど、そこがあんまりね、援用するに終わったというところが不満なんですが、メルロ=ポンティの議論のここに有効性を感じたみたいな、みやおさんのこだわりというのあったら、教えて欲しいなとおもっています」

わたしは1月におおあせをかきながら、ごにょごにょとこんなふうに答えた。

「分裂と凝集が同時に来るというところで、交互に繰り返すというより、紐づけられて押し寄せてくる、どちらも一緒じゃなければいけない…ごにょ…塊の裂開している時に塊がわかる。分裂の痛みと成熟…いやなんですかね… 」                          「わっはっは」(主査)
「わりきれないせつなさというふうに最後の方言ったんですが、世界の只中にあって自分自身であるということは、世界の只中になくては自分自身でいられないしでも世界の只中にあると自分自身がわからなくなるっていうその、矛盾したものを持っていないと何も得られないんだなと何となくわかった感じが1番発見だったなあというふうに思います全然ちゃんと言えないんですけど…ごにょ」

ごめんと思う、わたしのはやくちの説明のうえこんな回答をしているところを、他の生徒や先生はきっとねむりながら見ていたと思う、忘れてしまいたい応答です、おええ、でも、このあとの先生の応答こそわたしが忘れたくないと思うことです。

「うふふ、なんか、わたしは今聴いていてとても気持ちがいいんですが、わけのわからない議論だよね(笑)(ほんとうに(笑)でした)

みやおさんの論のとてもいいところは、やっぱりこう文学論としてやっていて、哲学的な議論も、哲学的な議論としての整合性を求めた哲学ごっこではなくて、やっぱり生きてる感覚っていうのかな、それから感情とか、うん、感情とか感動とかそういったものと哲学的な議論が不可分なものとしてみやおさんの中にある。

そのうえ、だからこそそういうもののうえに両立する、またいで成立する文学というものを愛することになるんだということにつながっていて、私は非常に気持ちよく思っています。

ですから、まあ、こういう人が社会に出ていくわけだけれども、生活者としてありながらわくわくする感覚とかせつない感覚というものを、こう、抽象的な論、概念構造によって考える視点の、両方をずっと持ち続けてくれることを願っています」

わーと思ったし、わーと言っていた。わたし泣いてしまうかとおもった。わたしはずっと、自分が文学研究でも哲学研究でもないへんなぬるいぬかるみにはまっていて、どっちつかずでどうしようもなく、なんだか楽しいところだけを奪い去っていることがすごく腹立たしくてばかやろうばかやろうと思ってる。ぐじゃぐじゃしながらぼうっと漂っていて、そんなんでいいわけないのになと分かりながらこんなもの書いてしまったなと震えてる。

浅瀬にもいけず砂浜に寝そべりながら深海の夢を見ていたわたしに、せんせいはこんなこと言ってくれた、それだけでわたしはもう卒業できると思った。

わたしは院に進めないし進まない。それなのに卒論を書いたら「はじまり」という雰囲気が漂った。その雰囲気はそのままわたしをどこにも連れて行っていない、半分商人になったわたしに、その雰囲気は何も声かけをしないのに、でも、やっぱり卒論は「はじまり」の記憶になってしまっている。わたしはどこへ行っちゃうのだろう、どこかへ行かせてもらえるかしら、わたしは半分商人で、もうすぐ全部商人になっちゃいそうな危うさだけど、それでも「はじまり」の記憶でいつづけてくれるのか。

せんせい、せんせいはわたしがもう大学にいられないので、ああ言ったのでしょう。それでも、わたしはせんせいのお言葉をきちんきちんとしまっちゃいますから、よろしいですね。もうしまっちゃっているんですから。

最後の面談の時、大学院にはいつでも戻ってくればいいとせんせいは言った、わたし海外の大学院に行ってみたいです、できたらフィンランドの、と生意気を言うと、まあ素敵じゃない絶対行った方がいいわよそしたら手紙を書いて頂戴ねとせんせいは言った。わたしはもうすでに手紙を書きたいです、せんせい。そしたらこんなふうに書きます。                            

こんにちはせんせい。生きています。以前伝えたふしぎな気持ちについて、その生まれる箇所、そこは明るみと暗さの一体となった地帯であって、きっとそこでは、深海の泡が砂となっていきなり私の目の前にポンと置かれるような場所だと思います。わたしは本が好きで、けれどいまはそういう気持ちと関係なく、ただ、本を売るのだと思います。                   

わたし、跨ぎこして行こうと思います、はじまりもおわりも同時にやってくるわけですし、このなにもはじまらずなにもおわらない妙な期間においては、コーヒーを運ぶのも品物をつくるのも、わたしを生かすんじゃないかと思うんです…

わたしはもう大学院のことなんて全然考えていなくて、文学のことだって考えていなくて、そうしてつまりなにも考えてない、笑ってしまうほど生きているだけです。ですがわたしは跨ぎこしていきます、わたしは感覚と知をまたいでなにかを見てみたいと、本当にそう思っている、それがどこにあるのかをわたしはまったく知らないとしても、それでも、です。

書けない手紙、出せない手紙を書く今は火曜日の21時47ふん、明日は出社ですそうインターンの方、朝はそれなりに早く夜はそれなりに遅くなる、さあもうひとつ何か煮込んでしまおうかしら、缶のハイでも飲みながらまた台所に立ってしまおうかしら。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?