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船をおりて歩くこともできる

この間舟に乗って眺めていた景色を
今夜は徒歩でつとつと眺めている。

これがおれの街、
と思ってはしゃいで
ひとがたくさんだ!
と感じてさらにはしゃいだ。

そういう夜があって、
そのことを次の夜には同居人にぺらぺら喋り
今夜はひとりで歩いている。

とてもきれいに光る橋の横にあるのが
中央線の通る橋である。
いつもとてもうるさく、そこがいいと感じる。
うるさいものを好きと感じることは少ないので、川べりの夜の力の大きさを見るよう。

あまりに目まぐるしい最近だったと思う。
主に仕事がその理由だが、
土日もよくこの町から離れていた。
多くの人に会っていたわけでもなく、ただ、
ひとりになる時間をとても避けていた。

これまでを振り返ってみて、
自分の意思だけで決定したことは
ぜーんぜんないのかなという気がしてきた。
その時が来ることを期待しつつ
全く異なることで手を動かしていたりして、
そしたら次の行き先が決まっていた!
というすごろくをやってきたような。

今ほど何も考えていない日々はないと思う。
(このことを言うと同居人に
思考停止ってコト!?とか言われて
たまにいらりとしているのだが)

現在地は、周りの運ぶ力がとにかく強く
わたしはその力を撫でながら
あまり考えず手を動かしている。

こうなることが、意外と自然だったような
ありうべきことだったように感じられている。
従来のポイントを見ても
なんだかそんな感じに思えるから
何も変わっていない、って言えるのか?
でも着実にわたしの身体の構成は
変更されている。
日の中で、光の角度が変わっていくように?

誰か法螺貝を吹いていると思ったら
チューバだった。
西洋だ。
おばあさんは音楽をかけて踊りながら歩く。
川べりにはまだ自由の風がある。

ひとりで歩くのもままならず
母に電話をかけたら出てもらえなくて
そのため文章を書くことができた。
思い出してきた?
と言われているようにも感じるけど
動かし続けたわたしの手から
あるいは身体の中の光から
変更も不変もあるものだと
言われているようにも思える。

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