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歩きはじめる前に
普段なんとなく生活してるとどうしても職場と家の往復になってしまう。交通網の発達した都心では一度電車に乗れば外の風景も気にすることはなく、ただ等速に車窓の外のものは過ぎ去っていき、目的地へとたどり着いてしまう。多くの人は通り過ぎていったものに興味を抱かないかもしれないが、私にとって過ぎ去って行ったものたちほど興味をそそるものはない。会社へ向かうその時でさえ途中の駅で降りて歩き回りたくなる。もちろんそんなことはしないのだが、休日には諦めきれなくなって、各町々に出向いてはその風景や道端にあるものを眺めるのが日課となりつつある。
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ふと忙しく生きていると自分のことや今現代のことばかり気にしてしまうが、今をこうやってある程度平和にやっていけるのは私が生まれる遥か前にこの世を過ぎ去っていった多くの人々の努力があってのことだろう。どんな時でさえ、私は私一人では生きてゆけずありとあらゆるものが先人たちの知恵によって成り立っている。学問や食、仕事の技術それらが過去から受け継がれたものだということをふと思い起こす。
そうやって過ぎ去った者たちに目を向ける時間が私には必要だ。こうした思いこそが人間が行う弔いという行為の根源なのかもしれない。
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私にとって石塔巡りもそうした過ぎ去った者たちを思い起こすための一つの技術だ。かつての日本人というのはことあるごとに石を建てる民族であった。どこそこの山に登った、日待ちや月待ちをした、大切にしていた馬が亡くなってしまったとさまざまな理由で石を建てるのである。村境や辻には地蔵尊や道祖神、庚申塔、川のほとりには水神さまや橋供養、神社やお寺の境内には巡礼碑。それらの石を立てる風習は今でさえ珍しいものになってしまったように見えるがかつてはごく当たり前のことだったのだろう。歩けど歩けど見知らぬ石たちが語りかけてくる。一度気になりだすともう気にしないこともできなくなり、道端の者たちを片っ端から歩き回ってしまう。
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今はその役目を終えてひっそりと佇む。
歴史には「大文字の歴史」と「小文字の歴史」があるという。教科書に載る英雄たちの歴史が「大文字の歴史」で教科書に載らないさまざまな人々が細々と営んだ時間の流れが「小文字の歴史」だと言われる。歴史と聞くと多くの人は「大文字の歴史」を思い起こすだろうが、石を歩いてゆくとさまざまな場所の「小文字の歴史」が気になるようになる。石たちの多くは農民や庶民によって建てられた。農民や庶民の人たちは歴史の教科書には名前をほとんど載せないが、石塔を建てるという形で「大文字の歴史」に抗っているようにも見える。
一本の線路を辿る歴史ももちろん重要だ。複雑なものを複雑なまま一息にとらえることは難しい。細かさよりも大きな流れを把握するという方法論も人が作り出した技術だろう。ただその車窓には過ぎ去っていく様々な風景があることも、私は忘れたくはないと思ってしまう。
2023.06.16
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