美術館めぐり

美術館が好き。

時間が少し余った昼下がり、ふらふらと入った国立西洋美術館にその絵はあった。

新印象派のその絵は私の胸を貫いて、風が絵から吹き出して誇り高く薫り、世界をくすんで見せてたような薄い膜が幾つもいくつも飛んでいってしまった。何故か涙がポロポロ出てきた。立ちすくんでしばらく動けなかった。大袈裟でなく私は生きていけるような気がした。

私は自分の内側から溢れ出る「好き」という強烈な気持ちに初めて出会ったのだ。

美術館にいる、存在している私は、誰のものでもない状態だった。
誰かの娘の私でもない。誰かの友達でもない。誰かの生徒でもない。誰かの憧れの先輩でもない。誰も私のことを見ていない。世界の誰のものでもない、自分だけの自分が存在していたのだった。
誰かとの繋がりを自動的に強要されないその世界は、とても居心地が良いと同時に、その時間の私は自分1人で自分を成り立たせなければならなかった。本当はこのまま空間と時間に少しずつ溶けて消えてしまいたかった。光の粒になってバラバラになってしまいたいと強く願っていた。ずっとずっと苦しかった。
生きることは足枷が付いたまま歩き続けなければならないことで、死ぬことは質量を持った世界から解放される完全な救済だと思っていた。

結局のところ自分を自分たらしめてるのは他者からの視点でしかないと思っていた。他者が存在しない限り私は自己の存在意義を見つけることができずにいた。
私と関わる人全ていなかったらすぐにいなくなれる。「私以外」の世界に強く依存して生きていて、「私以外」があることでやっと私とそれ以外の境界線を認識していた。輪郭がぼやけていて、自分は自分で中身を満たすことができない空っぽな人間なんだとも思っていた。
(それが本心であるかはさておき)やりたいことを見つけ、叶えたい夢を掲げ、宣言するようなプロセスを踏むことは到底できない、出来損ないだと思っていた。

それがどうだ。たった一枚の絵だ。私を私たらしめ、誰にも犯されることのない、自分の内側の1番深いところから「好きだ」という感情を呼び起こしたのだ。
私はこの絵があれば、世界でひとりぼっちになっても生きていけるのだ。なぜならば好きだから。

なぜならば好きだから。ただそれだけ、しかし尊くて不可侵のものに辿り着くまでにこれまでどれだけ苦しんだことだろうか。でもそんな辛いことも忘れるくらいの限りない喜びを感じた。
私は美術館という空間でそのまま消えてしまいたいと思うことがなくなった。
誰のものでもない自分、自分のためだけの自分の時間を愛せるようになった。
その時間で私は、落ち着いて、私の心の動きを感じ取り、感情の発露を待ち、それら全てが私から生まれる私だけのものであって、その感情を愛しいとさえ思うようになった。価値のないと思っていた自分自身に対しても、出来る限り優しく接したいと思うようになった。すごい変化だ。美術館万歳。

美術館。その空間。運命の絵。私のように救われる人が今までもこれからもどんどん現れ続けるのかもしれない!なんという場所なのだろう!

美術館巡り。それは、新たな私と対面するための、欠かすことのない生きる標となっているのだ。

生きててよかった。