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#29新年を実家で迎える。

飛行機にのって、はるばると九州の実家に戻ってきたわたしとミドリーは、実家の両親と東京からもどったドラちゃんの五人で、今年のお正月をむかえています。ただ家族がそろうとことに、これほどの喜びと安堵を感じられるようになったというのは、確実に年をとった証拠なのでしょう。

ふり返ればこの5年、認知症であることが発覚したバーバ(わたしの母)と、一応元気な老人となったジージ(わたしの父)を二人残して、テル坊との再婚にふみきり、実家をはなれたわたしは、つねに心のどこかに罪悪感がありました。仕事や家事で忙しくしていると忘れてしまっている気持ちは、帰省が近づいてくるに従って、大きくふくらんでくるのです。

「心配してても仕方ないじゃないか。帰ったときにやれることをやってあげればいい」
と、テル坊に何度いわれたかわかりませんが、こればっかりはコントロールが不可能なのです。

『くまの子ウーフ』というお話の中で、たまごをうむめんどりは、たまごでできていると、きつねのツネタからきいたウーフが、自分のからだからおしっこがでるから「ぼくはおしっこでできている?」と考える場面がありますが、わたしの場合、「わたしの心は罪悪感でできているんじゃないのか?」と感じることすらあります。そのくらい、人間の罪悪感というのは強固な力を秘めていると思うのです。

人の心という面から考えると、幼児期に子どもが罪悪感を感じるようになるのは、成長の大切なメルクマールだといわれています。ただ与えられるものを喜ぶだけでなく、相手が自分に対して示してくれる有形無形のものに対して「申し訳ない」という気持ちを抱くこと。頂いたものに対して、自分は何を返してあげられるのだろうかと自問自答し始めること。そこから人は、いよいよ「自分らしい人生」をスタートさせていくのでしょう。

でも、罪悪感がただ素直にまっすぐに、よりよい働きに昇華していくとはかぎりません。表出の仕方をまちがうと、心の中でさまざまな苦しみをうみだす素になってしまうのです。

罪悪感がわるさをすると、どんなことが起きるでしょうか。一番いやな出方は、気持ちがひねくれることです。「どうせわたしは…」的なつぶやきが、心からあふれて、何をやっても自分の行為を認めてやれない、「このくらいじゃ罪を償ったことにはならないよ」というわけです。

それがエスカレートするとどうなるでしょうか。「わたしがこんなに苦しんでいるのに、あなた(例えばここでは両親ですが)は、これくらいじゃあ満足しないってわけ?」と、心の中で相手に喧嘩をふっかけそうになっていきます。相手の顔色や言動を、自分の行為への評価だと思い込んでしまうのです。

そこを超えると「いいよ、いいよ、もうこれ以上は頑張れないよ」と急激にエネルギーが縮小していきます。周りに怒りをぶつけながらでも動けるうちはまだよいのですが、ここまでくると、やる気そのものもほとんど出てこなくなってしまいます。

こうならないために…。今年の帰省中の目標は「とにかくがんばらない」にしています。がんばろうとする自分に「あ、何をやってる?頑張っちゃダメじゃないか!」と自分自身にイエローカードをつきつけるのです。

そうすると、あら不思議。夕ご飯のメニューを眉間にしわをよせながら考える必要もなくなりますし、お昼に弁当を買ってきてチンして並べても、大丈夫。
「これは普段のジージとバーバのお昼の光景で、そこに今はわたしたちがいっしょにいるだけなんだから」
無理しなければ、わたしも普段通りに、煮込みうどんを作ったり、お肉を焼いたり、両親の食欲を気にしすぎずに、台所仕事に専念できます。

これが年末年始だという固定観念をとっぱらって、「家族がいっしょにすごせる時間を大事にすれば、それでいい」方針で、残りの滞在期間中、ゆるゆると過ごしたいところです。新年を実家で迎えられる喜びを、あと何年味わうことができるのか、と自問自答しながら。




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宮本松
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