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#75絵てがみの心。
「母さん、絵てがみを持ってきて」
実家に戻ると、何もすることがないとボーッとしがちな母に一つの任務を与える。それもわたしの大切なつとめです。50代前半に30年間つづけてきた小学校の先生を退職した母は、日常とは忙しいことだという身に染み付いた感覚をもち続けていました。その頃、家を新築して田舎に引っ越ししたこともあり、毎日のように庭の手入れ、畑の野菜作りをしながらも、平日は毎日、何かしら習い事に通っていました。フラダンスや手芸、山登りの会、それから水墨画などなど。
水墨画は、母の父、わたしにとってはじいちゃんが晩年になって楽しんだ趣味でした。若い頃、鉄道勤務をしていたじいちゃんは、農家の婿養子になるために鉄道をやめて、その後は農家の主人として何十年も働きました。田舎に泊まりに行くと、じいちゃんが軽トラで収穫したレタスやニラを近くの出荷場まで運んでいく時に、たまに同行させてもらったこともありました。小学生だったわたしにとって、じいちゃんは自分の父よりも大好きな存在でした。サザエさんに出てくる波平さんのように頭が禿げていましたが、顔がほっそりして鼻が高く、若い頃は相当にハンサムだったそうです。そのじいちゃんが農業を続けられなくなってから、第二の仕事のように取り組んだのが水墨画でした。
田舎に帰るたびに、「ちょっと見てごらん」と誇らしげに自分の描いた作品を孫のわたしたちに見せるのでした。よく描いていたのが牡丹の花で、花びらがどんな形をしているか、どんな色合いかを長い時間、わたしたち子ども相手に語っていました。それからお寺によくお詣りしていたこともあり、達磨さんの絵も大きな紙に描いていました。農家をしていた時よりも、もっと生き生きしていたじいちゃんの様子は今でも鮮明に覚えています。年を取ってから、ようやく自分が一番やりたかったことに出会えた喜びが溢れていたような気がします。
じいちゃんの影響なのか、母も水墨画に熱心に打ち込みました。本当に沢山の絵を描き、仕上がった作品を掛け軸にして家に飾り、楽しんでいました。60代の半ばで「もうこれ以上は人から教わらなくていい」と考えたようで、それからは近くの公民館の絵てがみ教室に通い始めました。今でもそれが認知症のリハビリとして、母の生活に刺激を与えてくれているのは、なんとも不思議な気がします。
絵心とは1)絵をかく心得や趣味。また絵を理解する能力。2)絵をかきたい気持ちを指すのだそうです。今の母には絵をかきたい気持ちはあまり強くはなさそうです。惰性で通っている面もあります。それでも月に二回、近所のお友達がいっしょに連れて行ってくれる絵てがみ教室で描いた作品は、かなりの数にのぼります。「これ、よく出来てるねえ」「色合いがやさしいねえ」などとこちらがコメントすると、「そう?」と言いつつ嬉しそうな顔をします。「せっかくだから、ドラちゃんとミドリーにてがみを書いてよ」わたしが促し、数枚の絵てがみに文章を書き加える作業をするのです。
「うーん、なんて書こうかね」
この時ばかりは、母もすごく真剣な顔をしてペンを握っています。ちゃんと頭で考えようとしているのが伝わってきます。
「ドラちゃんは、ほんとに背が高くなったよね。びっくりした。今度会ったらもっと高くなってるかもしれないね」
(もう成人しているのだから、これ以上背が伸びるわけはないのですが、笑)
「ミドリーはどうしてる?元気なの?ああ、それなら良かった。化粧して年頃の娘さんみたいにしてたら、街でばったり会っても誰だかわからないかもしれないね」
(偶然、街でミドリーと出会うなどということは、この先有りえないシチュエーションなのですが、笑)
母はあれこれと想像して、ひとしきり喋りまくるのですが、肝心の文章は一向に出てきません。何か書きたい、その気持ちはあるのですが、何を書いたらよいのか考えがまとまらないようです。結局いつも「○○って書いたらいいよ」とわたしがアドバイスした通りの言葉を書いていくのですが、どうしても書きたいことがあるのです。それは「ドラちゃん、ミドリーがそれぞれ結婚するまでは、ばあちゃんは元気でいます」という一文です。
「またかって思われるかもしれないけど、これだけは何度でも言っておきたいから」
そう言って母が笑っているのを見ると、孫たちが元気に頑張っていることが、母にとっても励みになっているのだろうなと感じます。ようやく書き終えた絵てがみを、母が満足そうに何度も読み直している姿に、だまってひとりホッコリするわたしなのでした。
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