#33沈黙よ こんにちは。
若いときに特別、苦手だったもののひとつに、沈黙があります。親しい友だち同士でも、単なるクラスメート程度のかるい関係でも、沈黙を共有するというのは、それなりに技術が必要だと思っていました。
でも年を重ねていくうちに、沈黙がそれほど怖くなくなりました。やはり、社会人としての経験の積み重ねなのでしょうか。午前中の仕事をなんとかこなし、午後からのもうひと働きにそなえて、昼の休憩は、思い思いに時間を過ごす同僚が多かったような気がします。人が自由にふるまうのをみて、自分も自由でいいと思え、無理に会話しようとする努力をしなくなっていきました。
自分では、沈黙とうまく付き合えるようになってきたつもりでいても、まだまだ未熟者なのだと思い知らされるのが、帰省したときの両親との時間です。とくに食事を共にするとき、いやが応にも、この沈黙が大きくクローズアップされてきます。「せまりくる」といった感じでしょうか。
妹夫婦も帰省している大人数のときには、影をひそめていた沈黙が、両親とわたし、ドラちゃん、ミドリーの五人になると、「待ってました!」とばかりに、リビングに広がり始めます。そして一足先にドラちゃんが東京に戻ってしまうと、もう我が家は8割がた、いや9割がた、沈黙という霧に包まれてしまいます(ひええ!)。
両親は、長く同居していたわたしとミドリーには、ほとんど気をつかわなくなるのです。
(このまったりした空気の中で、ふだんのジージとバーバは暮らしているんだな)
とわたしは感じます。年をとった両親の生活には、取り立てておしゃべりしなくてはならない案件は、多くはありません。加えて、その場の空気と自分たちの心を明るく朗らかにするために、おしゃべりを楽しむエネルギーは、大体においてガス欠状態なのです(とくに夕方以降は)。
これまでは、両親にとって空気のような存在である沈黙を、重たく息苦しいものと感じていました。せめて一緒にいる間だけでも、それを共有しなくてはという義務感が強かったからでしょうか。でも「もういいや、わたしはまだお年寄りじゃあないんだし(おばさんではあるけれども)」と開き直り、一旦両親から心の距離をとり、それ(沈黙)をながめてみると、
(なんだ、そんなに怖がることもないんじゃないの)
と、思えるようになりました。人が生き物として、動物として、活動しているときに、ひたすら何かを語りつづける必要はないのですから。
世界には、さまざまな性質の沈黙があるとして、わたしが両親の日常にある沈黙に身をしずめたときに感じるもの、それは「老い」です。からだの中から立ち上ってくる、老いの気配のようなもの。だからこそ、ふたりの命がいつまで続くのかを心配し、何かあったらどうしようと怯えていたとき、その気配を感じとることを無闇におそれていたのだと思います。
今でも、いつかくるその日のことは怖いのですが、老いの気配の中にある別の要素も感じられるようになりました。生き続けてきた命の歴史、みたいなものです。
「昔はあんなだった両親が、今はこんななんだ〜(笑)」という記憶がわたしの頭によみがえると、両親がけっこうな長い時間を、生きのびてきたのだという感じが立ち上がります。生き続けてきたこと自体、すごく不思議で、ありがたいことです。それと同時にいつかいなくなることも、命として自然なことなのかもしれない、というところまで想像する力がついてくるようになりました。
両親の老いを何度も目にし、それを肌身に感じることで、わたしは、自分自身の老いや死についても想像し、考える練習もさせてもらっている気がします。沈黙がおしえてくれること。それは人がひとりで生きて、ひとりで死んでいくという紛れもない事実が、いつも身近にあるということ。それは怖がる必要も、避けようとする必要もない、自然な流れのなかに起きること、なのかなあ…。
こんな大事なこと、すぐに悟れるわけでもなく、少しずつ、自分のペースで考えたり、感じたりしていきたいと思います。