見出し画像

idolになれなかった私

「はい、26歳、女性です。体温は…40度1分です。」
近くにいるはずの救急救命士の声が、やけに遠く聞こえる。
震えが止まらない…。
私を乗せた救急車は、程なくして夜間救急に着く。
診察では、インフルエンザ検査を受けたが、陰性だった。
今日のところは帰るよう促され、処方箋を受け取り病院を出る。
晩夏の月が私を明るく照らす。
タクシーを呼ぶために、携帯電話を取り出す。
彼に連絡を取りたい気持ちを抑える。

「恋人には、弱いところ見せずに良い格好するもんだろ。
 俺に、具合が悪いとか疲れたとか弱いところ見せるなよ。」

思い浮かべたのは、先月、彼に言われた言葉。
気を取り直して、タクシー会社に電話した。
蹲ってタクシーの到着を待っていると、通りがかりの人に心配された。
ようやく来たタクシーに乗り、1人暮らしのアパートへと戻る。
ベッドに倒れ込み、泥のように眠った。

翌日、体温は38度台になったが、まだ高熱の部類だ。
会社に休む連絡をしたら、同様に発熱で休んでいる人が複数いると言われた。
タチの悪い風邪でも流行したのだろうか。
閉め切った室内の気温は30度近くあるはずなのに、布団から出ると寒い。
全身の関節は痛いし、おまけにお腹まで痛くなり、何度もトイレに行かなければならなかった。
満身創痍で、布団に包まって縮こまって泣くことしかできなかった。
携帯電話の音で目覚める。
会社の同期たちからのメッセージだった。
夢現を行き来して、日が暮れた。

翌日も、熱は38度台だった。
昨日から、お腹が痛くなったせいで、食べることもままならなくなった。
もう一度、医者にかかったら、熱で消化器官がやられたのだろうと言われた。
近所に住む会社同期の有紗から、買い出しの申し出があったが、食べないからと断った。
そうは言ってもと、有紗は買って来た清涼飲料水をドアノブに掛けてチャイムを鳴らして去って行った。
遠方に住む田舎の家族に頼るわけにもいかなかったので、正直、ありがたかった。

次の日、熱は37度台になった。
相変わらず食べられないせいで、トイレに立つとフラフラする。
いったいいつになったら、出勤できるだろう。
仕事への焦りが募る。
午後6時過ぎ、携帯電話が鳴る。
彼からの電話だった。
有紗から、私が会社を休んでいることを聞いたらしい。
何事もないように取り繕うと思っていたから面食らった。
「今は、具合はどんな感じなの?」
「うーん、どうだろ…」
弱いところを見せるなと言われた手前、言葉を濁す。
「なんか言いたくないみたいだし、もういい!」
そう苛ついた口調で言われ、電話を切られてしまった。
彼は、営業職の有紗の取引先の会社に勤めている。
おそらく、有紗と仕事で会って、私が休んでいる話を聞いたのだろう。
私の様子について、有紗から詳しい話を聞くことは可能だろう。
毎回、寝込むたびにこうやって隠すのはキツいな…と今後について考えた。

彼と出会ったのは、有紗の紹介だった。
付き合い出して彼から聞いた話によると、モデル並みの容姿を持つ有紗の美貌は、取引先の会社でも評判らしい。
彼は、有紗の容姿はもちろん、飾らない性格にも魅力を感じていて、当然、有紗の主催する飲み会に喜んで参加したそうだ。
そこで私と出会った。
彼は今でも、仕事で有紗に会った日は、今日も綺麗だったと私に報告する。
「どう思おうと自由だけど、私に報告するのはやめてもらえない?」
と頼んだことがある。
「アイドルと同じ感覚で、別次元の話なんだから、いいだろ?」
と返された。
有紗は私の同期で、同じ次元の人間なんだけど…。
「あの美貌なら、医者でも弁護士でも落とせるだろうなぁ。」
彼の妄想は続く。
なんだか発想が前時代的だよなと私は思う。
友人に彼の態度について相談すると、大抵、何で付き合ってるの?と言われる。
…私を特別扱いしないからだろうな。
子どもの頃「モテる人」だった私は、注目されることに息苦しさを感じ、反動で大人になってからは地味に目立たないようにしていた。
特に社会人になってからは、私の卒業大学を知ると相手が引くということに辟易していた。
彼は、卒業大学に引かなかったし、私を非モテだと思って、構えずに接して来てくれた。
私にとっては、それが嬉しかった。
ところがそれは、時には長所となり、時には短所となる。

結局、仕事には1週間ほど休んでから復帰した。
本調子には戻ってはいなかったが、いつまでも休んでもいられない。
会社では、先週の暑気払いに出た鶏肉に、集団で当たったんだろうという話になっていた。
お昼はスープを食べるのが精一杯だった。
まだフラフラする私の荷物を、同期たちが持ってくれた。
仕事帰りに電車に揺られていると、携帯電話に彼からメッセージが届く。
「今日から出勤だよね?良かったら今日の夜、一緒に食事しない?まだ具合悪ければ、無理しなくていいけど。」
携帯を持つ手が震えた。
落ち着かなきゃ…とは思うが、落ち着けない。
「無理。病み上がりの人をよく誘えるね。」
そう返した。
家に着いてしばらくすると、彼から電話がかかって来た。
「だから、まだ具合悪ければ無理しなくていいって書いたじゃん!?」
と言われる。
「有紗から聞いてないの!?私、1週間、何も食べられなかったんだよ!?食事になんて行けるわけないでしょう?」
「…会社休んでるって聞いたから、てっきり風邪で1日休んだくらいだと思ってた」
と言われる。
1日休んだくらいで、有紗がわざわざ言わないだろうと突っ込みたかったけどやめた。
「そういうわけだから」
と電話を切った。

2時間後、再び彼から電話がかかって来た。
何の用かと思えば、
「俺が頼りないから、言ってもらえなかったんだって、反省して泣いた。」
と言われた。
そもそも言わなかったのは、頼りないからではなく言うなって言われたからだし、泣いたことを自己申告するのは、弱い自分を見せたことにならないのか、とモヤモヤしかしなかった。
体調悪いし、しばらく会うのは無理だからと告げ、電話を切った。
具合が悪いときに心配して欲しいっていうのは、私のエゴなのかな。
別に会社の同期みんなに心配して欲しいわけじゃない。
ただ1人に心配して欲しい。
これが世に言う価値観の違いってやつか…。
私は覚悟を決めた。

2週間後、彼とデートした。
「この後、夕飯食べるだろ?」
と聞かれ、行きたくない、帰りたいと思ってしまった。
それが私の答え。
「もう一緒にいるのが辛い。」
ポツリと言った。
彼の顔色が変わる。
「待って、そこの喫茶店でゆっくり話そう」
と言われる。
喫茶店で、私は確認した。
「今回、こういうことがあったけど、弱いところ見せるなっていうのは、これからも変わらない?」
「そこは譲れない」
いったい彼は何を反省して何に泣いたのだろう。
よくわからなかった。
「例えば、結婚して一緒に住んだら、隠すの難しいと思うんだけど、それでも取り繕わなきゃいけないの?」
「そう」
妊娠したら何かと体調崩すのに、まるで地獄のようだと思った。
「じゃあ、別れよう」
「待って。前に言ってたように、俺、来週から1カ月海外出張だからさ、その間にもう一度考え直してもらえないかな」
「わかった…それで納得できるなら」
と言って別れた。

1カ月後、出張から戻って来た彼に会う。
もう一度、弱いところ見せちゃいけない件について確認を取ったが、譲れないの一点張りだった。
「私の気持ちは変わらないよ」
と伝えると、彼は口をへの字にした。
そして
「こういうのって、どっちかが悪い訳じゃなく、どっちにも悪い部分があるんだよな」
と言った。
それは振る方のセリフだし、悪い悪くないじゃなくて価値観の違いが原因なんだけど、わかってないのかな…。
と思いつつ
「そうだね、今までありがとう。」
と締めた。
帰りに空を見上げたら、随分と高くなっていた。

それから半年ほど経った頃、有紗に元彼の様子を聞いてみた。
「聞きたい?」
苦笑いしながらそう言う有紗を見て、新しい彼女でも出来たかなと思った。
次に進めているならそれでいいと思い、聞くのをやめた。
もう、未練がましい電話もかかっては来ないだろう。
私は今、実家の近くに行くために転職の準備を進めている。

その半年後に私は転職し、2ヶ月ほどして有紗が遊びに来た。
来月、入籍して式をするという報告を兼ねてだった。
お相手は弁護士。
元彼の読みが当たった形になった。
以前、有紗に元彼のことを聞いたときの苦笑いは、やはり彼女が出来てのことだったらしい。
そして4カ月で振られたらしい。
「何かあるんじゃないの?って飲み会でいじられていたけど、あの性格じゃあね…」
と有紗は毒舌を発揮した。
4カ月の彼女より、私のことが忘れられないとも言っていたらしい。
だからと言って、歩み寄る気は無かったよね…。

翌月、有紗の結婚式に出席した後、私は仕事が本格的に忙しくなり、有紗は妊娠し、しばらく疎遠になった。
やがて、出産祝いのために有紗に会いに行ったとき、あの人は今…の流れになり、元彼の最近の様子を聞くことになった。
それは、予想だにしない情報だった。
なんと、熱心に宗教勧誘をしているらしいのだ。
なるほど、と思った。
神様なら弱い部分を見せず、いつでも強くあり、導いてくれる。
元彼は、理想の偶像(idol)とようやく出会えたのだ。
私は、元彼のidolにはなれなかった。
ただ、それだけのこと。