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野球のいびつさに横たわる違和感/『3-4X10月』

※注意 この文章を読む際はネタバレ等、核心部分への言及があります。各自判断したうえで、読んでください


野球のいびつさ

 この『3-4X10月』のファーストシーンを書くと、「青空の下で草野球」となるが、その文字面から連想されるような、さわやかさや朗らかさとは遠い所に位置する映画である。不自然に登場人物の顔がちょうど中央に映り、妙な違和感が音楽もなく横たっている。
 主人公の雅樹(小野昌彦/柳憂怜)は代打で試合に出るも、一度たりともバットを振らず、三球三振にしとめられ、監督の隆志(井口薫仁/ガダルカナル・タカ)にドヤされる。打者はいうなれば、投手と並ぶ野球の「主人公」だが、まったく何もしないままその役割を終える。

 「主人公」であるにも関わらず、物理的に全く動かない打者が存在しても成立してしまう、野球というスポーツのいびつさこそ、作品全体のいびつさを象徴している。
 他のスポーツではあまり見かけない扇形のグラウンドで、必要最低限の人数だけ動き、3アウトごとに小休止を挟む。投手が三者三振に抑えれば、投手と捕手以外の守備は、ほとんど何もしないままベンチへ戻ることになる。そんな不自然なシステムのスポーツが、四角い画面に切り取られると、さらに不安定な印象を受ける。野球を題材にした映画は多いが、そうした映画が描くスポーツへの賛美とは対照的だ。

 最初の試合シーンから30分ほどしたあと、ふたたび雅樹たちは草野球に興じるが、全く別の印象と言って良いだろう。
 その30分のうちに、雅樹はバイト先でヤクザに殴りかかり、隆志もリタイアこそしているが元ヤクザであり、かつての兄弟分を執拗にいたぶる凶暴性を隠し持っていたことが明らかになるからだ。
 2試合目は隆志がチームメイトを追いかまわしたり、雅樹が長打を放つ場面もあるのだが、「凶暴性を隠し持った人間たち」の戯れとして行われる草野球であり、あくまで草野球は「仮の姿」であることが露見する。その不気味さが、前述の野球のいびつさとオーバーラップしていく。


任侠映画的ではない上原

 中盤から沖縄のヤクザ・上原(ビートたけし)が登場するが、「弱きを助け、強きを挫く」をまっとうする、かつての任侠映画的なヤクザではない。むしろその正反対の、観客の生理的嫌悪を誘発する描かれ方をしている。
 平気で女性を手をあげ、舎弟の玉城(渡嘉敷勝男)に支離滅裂な理屈で指を詰めさせる。意図が最後までわからないこの行動規範を、グロテスクと形容してもいいかもしれない。 

 「ヤクザ」と「野球」という共通点がある映画として、菅原文太主演の『ダイナマイトどんどん』が挙げられる。ヤクザが組員対抗の野球大会を行う、あくまで任侠映画のパロディかつ豪快なコメディだが、一方で極道の人間の、仁義を重んじ、惚れた女を愛するという部分は、あまりギャグにすることなくそのままの形で描いている。 

 往年の邦画に於いて、ヤクザはピカレスクヒーローとして描かれる立場にあった。だがたけしは、お笑いや映画を含めたあらゆる創作において、先人を踏まえつつも、自分から型を破ることで作品を作ってきた。
 雅樹たちの無謀な計画を助太刀する粋な人物に見せかけて、実際には奇妙で奇怪な人物。上原はたけしなりの既存の邦画へのアンチテーゼであり、そのキャラクター性で観客の感情を掻き回すのである。


夢オチか過去か予知夢か

 この作品を語るうえで欠かせないのが、ラストシーンだろう。暴力団事務所にタンクローリーで突っ込むと、激しい炎とともに爆発……するも、映画は野球場近くのトイレで用を足す雅樹に戻る。
 単純に考えれば「夢オチ」だが、果たしてどうだろうか。今回は私なりにこのラストシーンに「夢オチ」「過去(実際に起こった)」「予知夢」という3つの仮定を並べてみる。

 「夢オチ」という考えも、この映画に関していえば、決して安直なものではない。
 一切音楽もなくただただバイクや自動車のエンジン音が耳に残る、ぼやけた印象の映画において、決して「とってつけたラスト」としての夢オチにはならない。夢オチにするにしても、そこに繋がるものがきちんと形成されているのだ。

 あるいは「過去」として、実際にタンクローリーで暴力団事務所に突っ込んでいたとしたら。
 であれば、外傷もなく平然と野球をやっているのは、先述した1試合目と2試合目の印象の違いどころではない。あれほどのことをしでかしてまでそのままの日常を、それもルールすらおぼつかない状態で参加している草野球を、何事もなかったかのようにプレーすることへの、恐怖を感じるラストである。

 最後に「予知夢」という仮定である。この 映画は全て雅樹の見た「予知夢」であり、映画の世界では「これから」起こることであるという仮定だ。
 この仮定の論拠として上原が実際に自らの未来を「見る」シーンがあることだ。組事務所を襲撃し、自らも破滅に向かう未来を、一瞬「見る」シーンがある。

 雅樹だけが「予知夢」を一度見た上で、物語の最初に戻り、この映画のあらすじをループする。あの無表情に淡々と事態を見つめ続けられる顔には、一連の出来事を、「予知夢を見て知っているから」という、理由付けが出来るような気がしている。私はこの説を推したい。


参考文献:阿部嘉昭「北野武VSビートたけし」 筑摩書房 1994年

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