大人のチャレンジは自信を取り戻すことから
ひょんな事で知り合ったkちゃんはいつも吠えていた。世の中に対して誰かに対して。でもそれは直接誰かを不快にするわけじゃなく、誰かが思っていたことを代弁するような言い方で時には誰かの背中を押していた。
私はそんな彼女のことが眩しかった。
知り合った頃、まだ自分の中には「自信」があり、何をしても楽しくてしょうがなかった。何にでもなれる気がしていたし、なんでもできる気持ちでいた。まさに怖いもの無しの時代だ。
そこから「出る杭は打たれる」時代が続きだんだんと「自信」を失っていく。真水に墨汁を一滴垂らしたくらいなら良かったが、一滴の量がどんどん多くなり水はどんどん黒くなっていった。
匿名で発信するというのはある意味、強気の発言ができる。例えばSNSで何を書いても誰も「この人ってこんなこと言うんだ」なんて思われることもない。その人達は知らない人だから文章だけをみて判断する。
ジャッジされることが嫌なのはそんなところだ。
日常生活の中で出来上がった「その人」に対する勝手な解釈(想像も含めて)が本人を作ってしまう場合もある。「あの人ってこんな人だね」と言う一言が本人の記憶に刻み込まれ勝手に作り上げてしまうこと。
親が「この子はこんな子だから」と自分勝手に理想の子供像を押し付けてしまうこと。多くの子供は一番近くにいる親の考え方や言動によって人格形成されると言われている。
そりゃそうだ。身近にいる大人から「あなたはこんな人間よ」と言われ続ければ信じるしか無くなっていくからだ。
それが良い方向に出る子供もいれば最悪な末路を辿る子もいる。自分の子供を全て東大に入れたと言う家庭のお母さんは自分も一緒になって勉強していたと聞いた。まさに「子は親の鏡」勉強好きな親に育てられた子供は言われなくても勉強するし、探究心旺盛な家族に囲まれた子供はいつも子供時代の探究心を持ち合わせ、その答えを探し続けて研究を続けている。
子供の「自信」はある意味親がつけさせてやると言っても過言ではないだろう。ついた自信を持続させるのも周りにいる「大人」が大きく関与してるはずだ。
子供が何かに興味を持った時「やめときなさい」「あなたには無理」と言われて育った子供が将来大きなことを成し遂げることができるとは到底思えない。
せっかく育った「好奇心の芽」を大人はいとも簡単にへし折っていく。それも理由はほぼ大人の事情によるものだ。
「うちの家にはそんなお金はありません」
「そこまでしてやって何になるの?」
そんなことを言われて育つと「お金をかけることが大事」になり、いざお金を払ってしまえばそれで満足し、やらなくなると言う現象も起きて来る。それこそ本末転倒で、お金を払えるようになると学べなくなる。
結局、何をしたら満足なのか、自分がどうしたら満足するのかは幼少期の行動に関与して来るのかもしれない。
やりたいことがあっても「どうせ無理だから」と止められていた子はやれるようになっても、心の中で「どうせ無理だから」を繰り返しやろうとすらしない。
できない理由が「うちにはお金がないから無理よ」と言われてきた子供はいざお金をかけてやろうとしても、お金を払った途端に満足してしまい先に進めない。欲求が満たされたのは「お金が払える」と言う状況だからだ。
だから子供時代が大事。子供の頃に宿った思いは大人になっても変わらない。根本はなかなか変わらないものだ。もうそれは親を、環境を、恨むしかない。
だけど、中には子供の頃にできなかったことを、大人になってやり始めた人もいる。そしてそこから経験していく人もいる。
根本的なものは幼少期に出来上がっていくとしても、諦めずに戦おうとしている大人もいる。もしかしたらあきらめの悪い大人かもしれないが、それでも挑戦する人もいる。
人は変われるか?
答えは実はわからない。だけど、根本的なものが変わらなくてもそれに応じた生き方ができるのではないかと思っている。
私が迷い続けている頃に出会ったkちゃんは誰からも嫌われることなく、自分の言いたいことを言って、それが誰かの背中を押していると私は美化していた。それこそ勝手に作り上げていたのである。
誰にだって、陰陽はある。明暗もある。それに気がつかないくらいに私の視野が狭くなっていた。
変更を怖がるとか、今じゃありえないがそう考えると、少しは成長したのかなとも思う。大人になれば成長できないと言うのもある意味都市伝説だなと思った。人はいつでも変われる。ただ、すぐに戻ってしまう人もいるし放っておくと自然に元どおりのなってしまうのも事実だ。だから努力が必要だし、自分の本当にやりたいことの方が良いのだ。
人を羨むことや、誰かと比べて自分を卑下すること。過ぎたことに関して自分を責めて何になる。
中途半端な人間であることがすごく嫌だったが、ある講演会で「中途半端だからこそ、助け合える。完璧な人間だと助け合う必要がないでしょ」と言われ目が覚めた。
誰かの役に立ちたいと思っていたけど、誰かのためにできることと同時に、自分の足りない部分を同時に補い合える関係性ができればお互いが良いのではないだろうか。一方的に「誰かのためにやります」と言っただけでは必ず壁にぶち当たる。不完全な自分でもできることがあれば相手にも喜ばれ、そして自分のできないこともやってもらえると凸と凹で綺麗な形になる。
もちろん綺麗だと言うだけが目標ではないが、足りない部分を補い合えることは精神衛生上も満たされる。
そうすれば、子供の頃の自信が蘇ってくるかもしれない。大人になっても子供の頃の「なんでもできそうな気がする」感覚が戻ってくるかもしれない。
SNSで匿名で発信しても、実名が晒される時代だ。どこにもプライベートなんてない。プイバシーなんて糞食らえだ。
だからこそ、リアルでもネットでも本音で語りたい。ま、今は匿名だけどね。
今の子供達にはどんどんチャレンジする大人に育って欲しいと思う。本当にそう思う。未来の日本を頼んだよ。
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