自分を責めない独り言
コロナ自粛による持続化給付金の質問を受けていた。過去の経歴で経理・税務の職場経験のある私はこの手の質問をよく受ける。個人事業主の人はある程度利益が出ないと税理士に頼むことはなく、ほぼ自分で勉強して確定申告するか、私のようなちょっとだけ経験のある人に聞いたりして、急場をしのいでいる。
私の方は現役を離れてどんどんリアルタイムに変わっていく世の中に取り残されていくのだが、こうして質問を受けると必死で調べて「今」を知ることとなるのだ。特に税制改正などは常にチェックしておかないと見落としてしまう。だから確定申告の時期は仕事を離れてもなぜかピリピリしている。
そう、仕事を離れるとモードが変わって仕事の話はしたくないものだ。特に私は職場を一歩出ると、全く仕事のことを考えることはなくはっきりと区別していたのに、職種が変わった今の方がどっぷり浸かっているような気がする。
実はそれには訳がある。
私がそういう仕事をしていたのは、周りの何人かは知っていて同じような質問を受けることがあるのだが、なぜか答えたくない人もいるのだ。それについて以前から自分でも不思議なくらい「区別」していて(差別ではない)私にとって仕事でないことで経理・税務に関しての質問に答えることはないと思っていた。
そしてここ何年かの自分の行動と、心の変化そして付き合う人のことを考えると、どうやら相手によって変えていることに気がついた。同じ質問をしてもある程度のことを答えられても、それ以後は調べ方を教える人とシミュレーションまで考えられる人それぞれなのだが、そこにある線引きは相手の心の中にある「奪う気持ち」によるものだった。
私の心は猫の額より狭い
相手から奪われそうになると、必死に守りたくなるものだ。たとえそれが「情報」という形ないものであっても。調べればわかるものなら尚更自分で調べて欲しいと思ってしまう心の狭い私なのだ。調べる・確認するということはこちらも時間をかけ正確なものを提供しようとする。そうなるとかなりの時間を要するもので、時間をかけるということは自分の命を削っているということになる。
その命の時間をかけた情報に対して「知ってるなら教えてよ」と軽々しくいってきて、教えても参考にもせず違うことをするなど無礼極まりない行為をされると二度と調べるものかという気持ちになる。なんと心の狭いことだ。これは過去のカルマともいうべき私のテーマのなのだが、どうしてもまだそこはクリアできていないようだ。
お金の問題ではない
お金をもらうということは、もちろんこちらにも責任がある。責任がある以上必死で調べるのは当たり前だし、正確なものでないとその情報には価値はなくゴミにしかならない。いや、それ以上に相手に迷惑をかけてしまう。それくらい神経を使う。
だが、情報は目に見えないからこそ奪われやすい
これからお金の価値が変わって、今までは「お金」で換算されていたものが別のものになった時、どうなるのだろう。どうあれ、結局問題に対する姿勢とお互いの意思疎通ができているかということになると思う。どんな状態であれ与えるものと奪うものは変わらないだろう。私はその間で自分の心地よい人には与え続けるのだ。
私は神でも仏でもない。感情があるしかも好き嫌いの激しい人間だ。好きな人には精一杯のことをするが、そうでもない人にはそうでもない対応、嫌いな人は眼中にない。だからと言って、困っている人を見て見ぬ振りができず、いつも最後バカを見るのが私なのだが……。
そんな自分も良しとする。嫌いだからといって意地悪なことをする自分でなくて良かったと思いたい。安易に聞いてくるだけで失礼な態度をしてもいつか気付くだろう。気がつかないかもしれないが、それもその人の人生で私が関与するまでもない。こういうところは案外ドライだ。
結局、人間は良い悪いではなく好き嫌いで判断する生き物だ。感情があるからこそ、最後の基準は好き嫌い。それがわかっただけでも良しとしよう。そして、大好きな人のために調べたことで自分の知識が増えたことにも感謝しよう。
好きな人にはなんでも与えたくなるものだ!それで良し!!私は好きな人を増やしていけば良い。周りを好きな人で固めれば自己嫌悪に陥ることもないと結論が出た。よしよし。
長く人間臭い独り言に最後までお付き合いありがとうございました。