茂木健一郎氏の講演「脳力とAIアライメント」に反論してみた 中編
・AIが出た後も人間の対局は続いているが、それは将棋を天才棋士にただただ驚く側から、分析し評価・鑑賞する側に観衆が移行したものと考えている。無論将棋に明るい方々は前から分析していただろうが、素人には「すごい」以上のことはわからなかった。今は一手一手で善手、悪手が視覚化されてぐんとハードルが下がった。
加えて藤井聡太棋士を筆頭に、AIをプロとして活用し、対局に活かす棋士が登場し出したことも人間同士の対局の魅力を増したのである。新世代と旧世代の戦い、才能と努力のぶつかり合いに胸を熱くする人は多い。
思うに将棋を「打つ」のに最善手はあっても観方は人それぞれ。AI同士の戦いにも潜在的ニーズはあるが、人の心を打つ何かがないと作業でしかない。それは例えばAIにキャラクター(特徴)を付けること、攻めまくるAIと守りまくるAIとか。昔の棋士を甦らせるのも面白い。それこそVチューバーのようなキャラクター化するのもいい、というか私なら面白いと思う。要は性能というより個性が欲しいのだ。少しでも善戦してほしいと応援したくなるように。
もし人間が人間にしか興味がなかったら、自然科学は発達しなかったと思う。人文学の発達ももっと限定的になっていたと思う。
また、SF映画を引き合いに出して「AIは一時的興味に過ぎない」とするのもどこかおかしい。惹かれていた相手が他の大勢とも話していて失望するなんて、アイドルへの気持ちでありふれたものだ。AIだからではなく、関係性の問題ではなかろうか。
そんな中でも一定数の人は、自分が大勢のうちの1人であることを承知で、或いは忘れることにして推し続ける。それは見た目や性格にしろパフォーマンスにしろ、日常では感じづらい「夢」を見させてくれる、というのが理由のひとつだ。ポジティブな夢はネガティブな現実を凌駕する。そしてこれはAIにだって、むしろAIならではのできることがあるはずだ。
直接的な関係についても述べよう。もちろん、人間ならではの価値はなくならない。けどAIと独自の関係が築けるかどうかはその人次第である。もう少し卑近な対象で考えてみると、他の生き物やぬいぐるみが自分にとっての何者かを決めるのは、本人の業なのである。
また、別の観点からも反論すると、身内などの予め決められたコミュニティの関係を除き、最初は人間も一時的な好奇心で相手に接近する要素がある。「あの人どんな人だろう」と。そして相手を知った上で愛着を抱くことにより、持続的な関係を取る。これもまたAIだから飽きるというよりは、AIの特徴と個人の感性の相性と考える方が適切ではなかろうか。
腸脳相関について、私は腸を「内なる脳」と解釈しよう。脳みそだって頭蓋骨の中にあるじゃないか、と思うかもしれないが、脳みそが知覚する情報は外側の物も含む。腸は損傷したとき以外は内側のことしか処理しない。腸は単なる消化器官ではなく、生命の定義のひとつ、「代謝」を処理する演算機なのである。
脳は腸の元となるものの後に、外部の刺激に対処する必要性によって誕生した(もっとも、その頃は腸もまだ単なる管にしか過ぎない形だが)。腸は愚鈍なまでに内部のことのみに専念した結果、脳が灯台もと暗しでなしえない、内なる観測者になったのである。
その点で言えば、CPUも内部で受け取った情報のみを扱うので方向性としては類似している。もしCPUがより広範囲の処理を行い、OSと相互作用を持つようになれば、第2の脳ということにおいて一種の腸となりうる。そう考えると直感や感情も、人間と同様かは確かめようはないけれど、類似しているものを作り出せると思う。
むしろ腸に限らず、有機物ベースの生命体であることこそがAIーより正確に表現するならハードウェアなどの無機物ベースの非生命体ーとのアライメントの必須要素と私は考える。そう、爪が伸びることやしゃっくりも含めて。爪が古くより呪術に使われてきたように、人間はそこに付加価値を見出だすことができる。
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