ナザレンコ氏の徴兵問題ーーリベラルが懲罰徴兵を煽り戦死を嘲笑する事態になったことを残念に思います


■前提


・ウクライナ人であるナザレンコ氏が日本で保守言論活動をしている。
・ウクライナの徴兵に応じる旨の発言をしている。
・日本人の若者であるベビーレモン氏が義勇兵としてウクライナへ
・ベビーレモン氏がナザレンコを兵士になるように煽る
・政治家の米山氏がナザレンコ氏を徴兵逃れしていると批判
・保守派が事情が複雑であり違法ではないし徴兵逃れでもないと擁護
・左派が徴兵に行けと煽り、右派が日本にいろと守る勢力対立へ

①懲罰徴兵を煽るリベラル派を批判する

 結論として、私は日本のリベラル派が懲罰徴兵のまねごとをしていることに極めてがっかりしました。激戦の続くウクライナへ徴兵されることは戦死を含意しており、それでなくても長期間の拘束が前提です。国を守る大義がなければ、誰だって行きたくない。リベラル派はその恐怖を右派左派対立の構図で武器として使ってしまった。戦死の恐怖を利用して相手をとっちめてやろうとした。これは、日本人として極めて残念な事態です。
 かつて日本は徴兵を嫌がらせに用いたことがありました。東條英機の例は代表的です。1944年に起きた「竹槍事件」のことです。これは戦争に批判的な人物を徴兵して多くの戦死者を出した実例です。懲罰徴兵、懲罰招集とも言われます。
 この「懲罰徴兵」は2つの意味で邪悪だった。1つ目は気に入らない相手を徴兵を用いて処刑したこと。2つ目は市民の義務である徴兵を「罰」として扱い、徴兵の価値を愚弄したことです。徴兵は義務であると同時に権利でもあります。共同体のために兵士になる神聖な行為です。少なくとも神聖であるという建前がある。東條英機の懲罰徴兵はその神聖さをはぎ取り、徴兵を「国民を処刑する悪法」としての側面を強調しました。おかげで日本では徴兵の価値は地の底に沈むことになります。この歴史的事実は、徴兵がシステムとしてある程度時代遅れになったこととは別に、日本でその尊厳を失った原因です。
 長くなりましたが、日本では「正義を建前とした体裁の良い厄介払い」がいかに悪質なのか知られていたはずです。誰に対してもそれはしてはいけなかった。それを人権に詳しいはずのリベラル派が実行したことに私は残念に思います。
 ナザレンコ氏の徴兵を煽ったリベラル派は反論するでしょう。「ナザレンコ氏は戦争を煽っていた」「彼は徴兵に行くと言っていたので、矛盾を解消して送り出しているだけ」「皮肉を言っただけ」「普段からヘイト発言をしているので反感がある」「善意でウクライナ戦争に貢献させてあげている」「本気で言っていない冗談だ」
 しかし、私はナザレンコ氏の人格について興味を持っていません。私は日本が経験した歴史的教訓を原則とします。それは、「誰であれ、徴兵を煽ってはいけない」ということです。徴兵を煽って良い理由は存在しません。徴兵へ行けという皮肉も、冗談も言うべきではありません。なぜならば、ウクライナは現在戦争中で、徴兵も戦死も冗談ではないからです。
 ナザレンコ氏は保守派言論人として有名でしたから、リベラル派からは敵対言論人として嫌われていました。リベラル派の徴兵煽りは、ウクライナ兵が戦死する画像を送りつけて、お前もこうなれ、というものから、徴兵されて戦死したら嬉しい、ちょっと嫌味を言っただけ、というレベルの人まで様々でしょう。ただし、どんな理由であれ、彼を傷つけるために発言したことは間違いない。屋上から飛び降りろとはやし立てるようなものです。
 だからこそ、ウクライナが戦争中であることが重要になります。平時ならば言論の自由があるので多少のことで記事を書くほどイライラしません。これは戦時です。戦争は冗談ではありません。徴兵と戦死の恐怖が現実に存在します。言論活動の報復で死の恐怖を与えるのは、言論の自由への愚弄だと思います。
 私はリベラル派の徴兵煽りを人道的観点から批判します。

②徴兵煽りの構造的問題

 さて、私の言いたいことは終えましたが、論理的な記事を書く上で言い残したことがいくつかあるので少しだけ続けます。というのも、懲罰徴兵がダメというのは日本の歴史的反省と私の主観にすぎないからです。上記の文章では、徴兵煽りがなぜダメなのかを構造的に説明していません。
 別にヘイト野郎を徴兵して死んだらラッキー、私たちは戦争に行きたい奴を応援して自由を尊重しただけで責任はない。本人は英雄の戦死でうれしそうじゃないですか、と考えることも論理的です。きっと東条英機も、日本人でありながら戦争に反対的だった人は苛め抜いてやりたいほど悪人だったに違いないのですから。ですが、懲罰徴兵や徴兵煽りがダメなのは、たとえ悪い奴をいじめることが正しくても、構造的に私たちの社会を破壊することにつながるからです。
 簡単に整理します。

 徴兵煽りは2つの構造的問題点があります。1つ目は人道的問題、2つ目は政治的問題です。
 一つ目、人道的問題とは、徴兵の可能性にさらされた市民はその時点で自由意思をゆがめられ発言を訂正するようになることです。戦争中は徴兵に反対すれば、公的・非公的を問わずに嫌がらせをされます。非国民になります。そうなれば、社会的地位の喪失が起きます。懲罰徴兵で生命も失うかもしれません。つまりは自由意思はすでに奪われている状態です。
 ナザレンコ氏の例で言えば、彼の徴兵参加の発言や、保守的発言は権力者であるウクライナ政府の監視下にあることから生まれたと考えるべきです。彼が本心で言っているかは考慮しません。民間人である彼が、徴兵という権力構造にさらされていることから、自由意思で発言しているとはみなさないという構造的な理解です。
 徴兵煽りの人道的問題とは、公的権力から生命を脅かされるプレッシャーを受けている中で発言しているのに、その発言を言質として民間からもプレッシャーを与えることになる構造があることです。公権力と民間の両方からのプレッシャーは自由意思を捻じ曲げるほどの力を持っています。そのプレッシャーの下で、たとえ「喜んで戦います」と言ったところで本心とは思えません。日本の特攻隊が戦死を受け入れたのを、自由意思だと鵜呑みにできないのと同じです。
 2つ目、政治的問題とは、徴兵煽りをしてしまうと戦場帰りの戦争煽り屋に何も言えなくなることです。懲罰徴兵や徴兵煽りには前提があります。激戦で戦死するだろう、という前提です。ところが、現実は複雑です。兵士たちはいつか帰ってくるのです。そのとき、「戦争を煽るなら戦場に行け」と言っていた人たちは何も言えなくなります。帰還兵は英雄ですが、間違ったことも言います。
 ナザレンコ氏の例で言えば、彼が死の恐怖におびえて非国民となりリベラル派の軍門に下ることを、多くのリベラル派は願っていたでしょう。ですが、実際に戦場に行き地獄を見て日本に戻ってきたらどうでしょうか。徴兵煽りをしていたリベラル派は何も言えなくなります。
 徴兵煽りの政治的問題とは、戦場帰りに過剰な政治的発言力を持たせてしまうことにあります。徴兵に行きたくないことを前提にしすぎて、戦場から本当に兵士たちが帰ってくる可能性に気が付かないのはまずいです。帰還兵が正しいことを言うとは限りません。次なる戦争を煽るかもしれません。
 以上、徴兵煽りの2つの構造的問題を示しました。構造的問題とはあくまでも危険な可能性を引き上げる問題なので、処刑されても非国民でいますと言ったり、徴兵煽りしたけど戦場帰りでも糾弾しますと言えば解決する話です。しかし、それで解決しないからこそ構造的問題と言われるわけですが。

③言行一致させるな

 最後に言行一致の問題について検討します。リベラル派はナザレンコ氏の徴兵を煽る時に理由としてあげるのが言行一致の問題です。「徴兵に行くといった発言の自己矛盾を解決させるため」「戦争煽りしたのだから、戦場に行くのが正しい」リベラル派の多くは言行一致の問題を一貫性のなさとして糾弾しています。この背景には「若者を戦場に送り銃後で贅沢をしている権力者」というステレオタイプが頭の中にあり、ナザレンコ氏を「戦争煽りするが戦争に行かない卑劣者」と定義しているのでしょう。
 私はこのリベラル派の批判を理解しているつもりです。実に古典的な戦争を煽り若者を犠牲にする権力者への批判だからです。言葉だけで戦争を煽り、自分は危険を冒さない。他人の勇気に寄生するようなやり方に反感を覚えるリベラル派の気持ちは理解できます。リベラル派の権力者に対する批判も、日本の歴史に沿ったものです。兵士が戦死する中で、銃後の権力者たちは贅沢をしていた。その権力者たちとナザレンコ氏を重ねているのでしょう。
 正直に言えば、このタイプの発言を否定するのは難しい。「言行一致」を至上の価値においているタイプの徴兵煽りは論理的整合性があります。構造的問題では反論できない。
 ためしに前述の2つの構造的問題で言い訳してみましょう。まず第一に、自由意思を奪われていて戦争を煽る権力者どころか、権力に監視され戦争協力の発言を迫られている民間人の立場であると言い訳します。すると、非国民になるか兵士になるかを選択させられ、非国民として牢屋に入れられることをもって良しとする。第二に政治的問題があり戦場帰りの戦争煽り屋になるリスクを言い訳にしましょう。すると、戦場帰りは発言権もって良しと開き直られる。
 その多くが、嫌味や皮肉のための建前だとしても、言行一致の指摘は論理的には正当性があるのです。
 もちろん、リベラル派による前線に行って言行一致させろという発言の裏には、それが嫌ならば反戦に転じて非国民になれという意味を含んでいるでしょう。いずれにせよ、言行一致する勇者になれということです。正義です。非国民になれば政府に捕捉されやすくなり、牢屋に行くことになるかもしれませんが、言行一致しています。
 そのため私が指摘できることは一つだけです。戦争における言行一致は、それは平和主義ではないということだけです。平和主義ではない。それは戦争加担である。それだけです。前線に行くことも牢屋に行くことも戦争加担です。

④平和主義とは卑劣なもの

 裏を返せば、戦争とは言行一致であり、平和とは言行不一致であるという構造が見えてくるのかもしれません。有名な至言に「平和とは臆病者が戦争を語ることであり、戦争とは勇者が戦争を語ることである」がありますが、私もそうだと思います。戦場での言行一致とは、明確な逃亡か明確な戦闘かしかありません。両方とも死につながります。
 戦争はすべてのオブジェクトをかき集めて戦闘に投入する性質があるため、反戦争とは投入不可能のオブジェクトたることです。平和とは、戦争に指揮命令系統に対して嘘をつくことなのでしょう。その意味では、古典的な悪である「戦争に行かない戦争煽り屋」こそ平和主義となります。「戦争に行く戦争煽り屋」よりましという点で。平和とは「戦争に行かない戦争煽り屋」の安全圏を増やすことであり、決して彼を言行一致させて戦争に投入することではない。それは単なる戦争領域の拡大で、安全領域の消滅です。  
 平和とは卑劣なものです。戦えと言い、自ら戦う勇者は筋が通っています。戦うなと言い、投獄される勇者も筋が通っています。平和主義はその筋を断つところから始めなければいけないのでしょう。少なくとも、安全圏の人物を徴兵に送るように煽ることは、たとえそれが正義であっても、戦争加担です。平和主義ではありません。
 平和主義の卑劣さの最たるものは、前述のとおり、戦争を煽り戦争に行かない者たちを守ることにあります。彼らを戦場に行かせることは感情ではすっきりしても戦争加担であり、彼らを反戦に導くことは勇敢でも戦争加担です。では、なぜ平和主義はこの卑劣さを温存しているのでしょうか。戦争を煽らない銃後の人間を守るだけではダメなのでしょうか。
 私はそこは具体的に答えられると考えています。一つ目は安全圏を守るにはバッファーが必要なことと、二つ目は戦争を終結させるには和平交渉が必要なことです。
 まず、「言論・実践ともに戦争に無関係な安全領域」は「言論・実践ともに戦争と関係している戦争領域」と直接結びつくことはありません。完全なる安全と完全なる戦争は隣人ではありえない。必ずグラデーションがあります。そのグラデーションこそが、言論だけで戦争を語っておきながら実践では無関係な集団です。安全領域を確保するには、彼らをバッファーとして必要とするからです。戦争を煽る銃後の卑怯者なしに、戦争を煽らないただ平和をむさぼる怠惰な集団を維持することはできない。
 次に、戦争を終わらせるのも、戦争を煽る戦場に行かない者たちだからです。彼らにとって戦争は言葉の中だけにしか存在せず、だからこそ和平できる。言行一致している存在が和平交渉できやしないでしょう。和平とは、戦えと言った言葉を翻すことです。現場の戦士からすれば嘘をつかれることと同義です。死んだ命を無駄にすることこそ、戦争を終結させる和平ではないかと思います。それができるのは卑怯者だけです。
 以上のことから、徴兵煽りは言行一致という正義を前提としていますが、私はそれを拒絶します。少なくともそれは平和主義ではない。平和主義はむしろ不正義の側に属するという理解があって初めて、古典的な悪を安全領域にとどめておくことができます。戦争とは悪を許さないことであるとするならば、平和は悪を許容することであるはずです。

(そもそも、ウクライナ大使館と関係している事情を見れば、複雑な事情があると察することができるはずです。そうでなくても、他人の命の問題に外野が安易に介入することに嫌悪感を覚えます。特に平和主義であり人道主義と名乗るならばやってはいけないはずだと思います。)


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