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【短編小説】モザイクの向こう側

(5800文字 約7分)

 私の視力は左右とも『1.5』。初めてランドセルを背負った頃から変わっていない。
 教室のどんなところからでも視力検査表のCがくっきり見えるのが自慢だった。
 私は学生時代、この目の良さを活かして《プールの監視員》や《海水浴場のライフセーバー》で稼いでいた。

視力検査表

 結婚して8年が経ち、息子のナオくんも今年、小学校に入学した。習い事も空手からサッカーに変え、新しい環境で友達も増えた。

 毎週楽しみにサッカーに出かけるナオくんを見るのが嬉しくて、
 サッカーに夢中になっていくナオくんを応援することが、私にとっての生き甲斐になっていった。

 私自身これまで興味のなかったサッカーを1から勉強するようになった。難しいルールも理解できるようになったし、海外の有名クラブチームや選手の名前も覚えた。

 夏が過ぎた頃、ナオくんの口から「サッカーに行きたくない」と言葉が出てきた。ひどく動揺した。
 何度も「どうしたの?」と問い詰めると、同じチームの子とケンカしたのだという。
 ナオくんは蹴られても我慢した、と話したので私はいても立ってもいられなくなり、すぐに学校に電話をした。担任は終始相手の肩を持ったまま空謝りしただけだった。

「子どもなんだから、ケンカくらい普通にするでしょ? それくらいで大好きなサッカーを諦めるなんて、もったいないよ」

 と、私が言うと、ナオくんは小さく「うん」とだけ答えた。

 ナオくんはその日を境に些細なことで簡単に「やめたい」と言い出すようになってきた。
 また嫌な子に何か言われてるのだろうか? 

 心配になった私は次の練習日に、ナオくんを蹴った子がどんな子が確かめようと練習風景を覗いてみた。

 私の目は広いグラウンドの中でも子どもたちを見分けることができる。子どもたちの一人ひとりの顔や動き、ナオくんに対する態度をくまなく観察した。

 あっ、あの子がナオくんを蹴ったシンくん?

 別に悪い子に見えない。ナオくんとも親しそうに笑い合っている。ナオくんが私を心配させまいと気遣っているのだろうか?

「すみませんコーチ、うちの子のことなんですが……」

 私は思いきってコーチにナオくんのことを聞いてみた。
 コーチはニコニコしながら「元気にやってますよ」と軽く答えてくれただけだった。
 ケンカはよくするみたいだけれど、一方的にイジメを受けているようなことはない、とのこと。

 私の見る限り、確かに特別仲が悪い子がいるようには見えない。そんな気配はない……
 ……だけど…… ナオくんが「行きたくない」と言った理由は、なんとなく、分かった気がする。

 他の子達……みんなサッカーが上手い。

 ナオくんとケンカしたというシンくん。運動なんてあまり得意そうじゃないのに、ナオくんよりもシュートが決まる。リフティングもナオくんより続く。ボールが顔にぶつかっただけで大泣きするような弱虫の子なのに……。
 他の子なんてもっと上手い。ドリブルが早い、トラップもうまい……。

 ……ナオくんは、ついていけてなかった、のかもしれない……

 最初はただ楽しんでいたナオくんのサッカーも今はそれだけでは楽しめなくなってきたんだ。
 勝てなきゃつまらない。上手くならなきゃつまらない……サッカーには勝ち負けがある。

「大丈夫、ナオくん、大丈夫だよ。ナオくんは、あんな子たちより、ずっと強い子だから。空手をやってきたのを思い出して。
 ……あの子より、あの子たちより…運動は得意なんだから。慣れたらもっと活躍できるから。諦めないでね」

 ナオくんはまた「うん」と小さく頷いた。

 ナオくんは3歳の頃から保育園を卒業するまで空手を習わせていたので体幹は強い。それに体格も大きいことから、一年経つ頃にはキーパーやディフェンダーの役割が自然と多くなっていた。

 でも私は思う、
 ナオくんがシュートを決めるところが見たい!もっとナオくんの活躍が見たい!

 ドリブルで相手をかわし、シュートでゴールを奪う姿が見たい。
 誰より強くなって誇らしく笑うナオくんの姿が見たい。

 そんな願いから私はナオくんに厳しくなっていった。毎日トレーニングメニューを課して達成できなければニンテンドースイッチを没収した。

「今日は何得点決めた?」
「なんで押し負けた?倒れるな!」
「諦めないで!」
「プレス!プレス!」

 練習試合に負けた日はご飯抜きの罰を、勝てば好きなだけご褒美を与えた。

 毎週、夫婦揃ってキャンプチェアを並べ、練習の様子をこの目でよく観察した。
 私の目からはよく見える。子ども達一人一人の表情。コーチの視線がどこに向いているか。
 ボールをぶつけられたナオくんが痛みに耐えながら走る姿。ナオくんにヤジを飛ばした子。ナオくんのプレーを認めなかった親。我が子ばかり応援する親の顔……。

 ある練習中、ナオくんがポジションのことで同じチームの一年生イチくんから注意を受けている場面を見た時、私の怒りは頂点に達した。

「ねえ、ありえない!何様のつもりなの!?
ナオくんだって毎日必死でシュート練習してるんだから!シュート打たせたっていいじゃない!
ナオくんばかりにディフェンスポジションを押しつけないで!」

 思わず私はイチくんを怒鳴りつけてしまった。
 イチくんの強気な表情が、ふと歪んだように見えた……その瞬間……あれ? 

 イチくんの顔に突然《モザイク》がかかった。

 何度目を凝らしても顔が見えない。ちょうど首から上の部分にモザイクがかかって、そこに顔があることしか分からなくなってしまった。
 何度も目を擦った。瞬きもした。だけど、モザイクは消えなかった。

 辺りを見渡した。他の子の顔は見える、もちろんナオくんの顔も。
 コーチの顔も見える。
 でも、イチくんの顔にだけモザイクがかかったまま、どんな表情をしてるのか、見えなくなってしまった。

「やめなさい。チームの作戦なんだから」
 夫に諭され、私はイチくんに謝った。
 だけどイチくんの顔からモザイクがとれることはなかった。

 きっと疲れているんだ。家事に仕事にナオくんの習い事。サッカーのあとはプールに連れて行って学校の宿題をやらせて、朝練の準備をしないといけない。疲れを取る暇なんてない。

 毎日が高速で過ぎていく。朝が来たかと思えばもう夜だ。そして疲れもとれないまま朝が来る。そうこうしているうちに月日が駆け足で過ぎ去っていく。
 ああ、休めなきゃ。目の使い過ぎだ。

 翌朝、目覚めの気分はいつになくスッキリしていた。心なしか体が軽い。30階の部屋から見渡せる東京の景色。遠くのビル群の建物一つ一つがはっきりと見え………………ない。
 なんで??
 スカイツリーから左側5番目の高いビル、そこにモザイクがかかっている。

 ちょ、ちょ、どうして??

 顔を洗ってもう一度外を見ても景色は同じ。
一つの建物だけにモザイクがかかっている。
 私は部屋の中のいろんなものを見て回った。
冷蔵庫の中、押し入れ、本棚……見えるものは見える。

「ねえ、突然視界にモザイクがかかることってある?」

 夫は「なんのテレビで?」と呑気に答える。

「テレビじゃなくて、目で見える景色の中に、突然モザイクがかかること、ってある?」

「さあ。目にゴミでも入ればそういう感じになるかもなあ」
 スマホに夢中の夫は、条件反射的に答えた。

「あのさ、私の目には、あのビルにモザイクがかかってるように見えるんだけど」

「モザイクってモザイク建築のこと? よく見えるね。そこまで普通は見えないから」

 夫はコントでもしてる気でいるのだろうか、まったく私の危機に気づいていない。

「そうじゃない!見えないってこと!」

「まあ、光の反射とか、そんなもんだろ」

 夫に真剣に相談するのがバカらしく思えてきた。呆れ返って私は夫のために沸かしていたお湯の火を止めた。もう珈琲淹れてあげない。

 まだ疲れがとれてないんだ。きっとそうだ。
 今日も早く寝よう。もっともっと目を休めて治さなきゃ。明日は午前中に授業参観で、午後から仕事が普通にあるんだから。

 次の日。
 午前中、半休を取って参加したナオくんの授業参観……。クラスにいる数人の子の顔にモザイクがかかっている。
 それだけじゃない、ここに来て挨拶をした数人の保護者たちの顔にもモザイクがかかっていた。

「ユウイチの母です。息子がサッカーでいつもお世話になっています。そういえば、この前の練習の日に◯✖️△⬜︎❓t」

 この前叱りつけてしまったイチくんママの顔にもモザイクがかかっている。それどころか、会話の後半にノイズが混じって何も聞こえなくなった。
 イチくん本人のモザイクもまだとれていない。

「お母さん、違うよ。ナオくんが◯✖️△⬜︎❓t」

 イチくんの言葉も最初しか聞き取れない。
 どうなってるの?

「どうもシンタの父です。ナオくんとはサッカーでも学童でも一緒みたいで」

 シンくんパパの間の抜けたような顔はハッキリと見えるのが憎らしい。こんな顔にこそモザイクかけてほしいのに。

 授業参観が始まると、子どもたちはみんな元気に手を挙げた。ナオくんも何度も私の方を振り向きながら自分が頑張っている姿をアピールする。
 あっ、シンくんも手を挙げている。頑張れナオくん。シンタなんかに負けるな。
 先生がシンくんを当てたので少しムッとしたが、発言したシンくんは答えを間違えた。
 私は思わずラッキーと心の中で笑い、シンくんパパの顔を見やった。

「はい!」

 ナオくんが指名された。答えてナオくん!

「正確!」

 やった!シンくんが間違った答えをナオくんは答えて正確した。
 よし!と私は心の中でガッツポーズした。私は誇らしくもう一度シンくんパパの顔を見やった。

 餌に群がる鯉のように、絶え間なくいくつもの手が挙がる。その中にはモザイクがかかっている子もいる。
 モザイクがかかる子の発言はノイズが混じっていて、後半部分が聞き取れなくなる。
 段々とモザイクが増えてきた。生徒たちが答える声にもノイズが混じる。
 もう何がなんだかわからなくなってきた。

 授業参観の終わり。誰かの保護者が担任と長らく話している。その親の顔にもモザイクがかかっていて誰の親かも分からない。
 ただはっきりと、
「うちの子がナオくんに……◯✖️⬜︎❓t」
 と、いう部分だけが聞こえた。

 ナオくんが何をしたっていうの!?
 悪い話? 良い話?
 気になるのに、見えない。
 聞こえない。

 それから。
 仕事に支障がなかったわけではない。だけど、それよりもナオくんの話の方が気になった。
 ナオくんに訊いてみても、ナオくんはそんなの気にもしてなかったらしく、
 「さあ、知らない」
 としか言わなかった。

 今度は夫に話してみたが、
「そんなことないでしょ。気にし過ぎだよ」
 と、全然気にも留めてくれない。

「確かなの!確かに聞こえたの!」

「その続きは?」

「そこから聞こえなくなるの。モザイクがかかる人の会話はそうなの、途中で聞こえなくなるの」

 バカな、とため息をつく夫に私はもう何も言えなかった。

「まあ、なんかあったら担任から話があるだろ? 何もないってことは大した話じゃないんだろ」

 眼科の医師は私の目を左手の指でこじ開け、右手に持つライトの光を差し込みながら、「上を見て」「下を見て」「左右に動かして」と指示をした。       
 私は指示に従って眼球をぐるり回したが、問題は無いようだった。
 続いて視力検査も行ったが38になった今でもすべての「C」の向きを答えることができた。視力も落ちていない。

「特に異常は見られません。むしろ視力は良い方ですよ。おそらく目の疲れでしょう。しっかりと睡眠をとってリフレッシュしてください」

「……はい。ありがとうございます」

 どこの眼科に行っても同じやりとりを繰り返すだけだった。
 私の目に異常はない。
 なら、脳に異常が生じたか? 
 いや、もしかすると、誰かの呪いとか霊障とかいうやつか? 

 私はこれまでまったく信じていなかった魂の世界について調べたりもした。
 有名なお坊さんにお祓いしてもらったり、霊能者を名乗る占い師に見てもらったりもした。
 キツネに憑かれているとか、先祖の因果を背負っているとか、生霊からサイキックアタックを受けているとか、みなそれぞれ違う原因を教えてくれた。
 ただ、何をしてもモザイクは除けなかった。
 モザイクは日に日に広がっていく。

 ナオくんが2年生になった頃、私の視界の殆どがモザイクに包まれた。
 見えるものしか見えない。
 見えない部分は憶測で補完するしかない。

 こんな目になっても、ナオくんが走る姿だけは見える。ナオくんが楽しそうにサッカーする顔。
 ナオくんは今では私の期待通りチームのエースストライカーだ。

 この日、ナオくんが弱虫シンくんからボールを奪ってゴールを決めた。さすがナオくん!

 練習が終わったあと、シンくんパパがコーチのところに何かを伝えに行った。何か相談をしているみたいだ。その時、ついにシンくんパパの顔にもモザイクがかかった。

「シンタとナオくんのことですが、見てるとやっぱり◯✖️⬜︎❓t……」

 見てるとやっぱり? 
 やっぱり、なんなの?
 モザイクでシンくんパパの表情が分からない。
 声も聞き取れない。
 悪い話? 良い話? なんの話??

 見ようと思えば思うほどモザイクは広がり、聞こうと思えば思うほどノイズに阻まれる。
 すべてはモザイクの向こう側だ。

「ただいま」

 今日5度もシュートを決めたナオくんが、自主練を終えて家に帰ってきた。
 先に家に帰り、夕食を作ってナオくんの帰りを待っていた私は、喜びを抑えきれずナオくんを抱きしめた。

「よくやったわナオくん。5本もシュートを決めるなんてすごいじゃない。シンタからよく奪った。よしよし、約束通りなんでも好きなの買ってあげるから。ご褒美は何がいい?」

 何が見えなくなったって私の視界にはナオくんがいる。ナオくんさえこの目に映るなら、私はそれだけで……

「ママ、今まで何を見てたの? オレ、シュートなんて一本も決めてないよ。それにオレ、今日は◯✖️⬜︎❓t……」

 え??

 その時、瞬く間もなくナオくんの顔がモザイクに覆い尽くされていった。

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