【短編小説】終わらぬ欲望の果てに
《2380文字 3分》
前から願っていたことがある
それを実行するときがきた
何もかもうまくいかない日々の中での、最悪な出来事、その決定的な出来事を、祈願成就のサインだと私は確信した
本当は殴ってやりたかった上司に、頭を下げて辞表を出すと、その後すべての出勤日を一度も使ったことのなかった有給休暇の消化に充てた
どれだけ仕事で人生を犠牲にするか競い合っているような職場だった、未練はない
私はこれまで文字通り人生の大半を犠牲にしてきた、だがそれは会社のせいだけじゃない
生まれ持ったこの顔、能力、育った家、すべてに原因がある
私はもう自由だ
ずっとやってみたかったことをやってやる
私は高級で有名な寿司屋に入り、値段など一目もくれず、食べたいものをすべて注文した
大好きなマグロを10巻も頼んで食べてやった
店を出ると、ネクタイをほどき、ベルトを外して、ワイシャツを脱いだ
この際、仕事関係の連絡しか来ないスマートフォンも捨ててやろう
プライベートは空っぽだ
モテないおじさんは友達もいない
アロハシャツと大きめのハーフパンツに着替えると、靴も先程購入したサンダルに履き替えた
それでも暑苦しいのは真夏だからだ
東京の夏は暑い
こんな場所からはすぐにでも離れよう
北だ、北へ行こう
財布一つポケットの中に入れ、駅へと向かった
新幹線で行けるところまで北上する途中、一枚のポスターが目に留まった、東北の温泉旅館のポスターだった
今度はその温泉旅館に連泊することに決めた
温泉旅館はいい、
湯船につかり、ご馳走を食べ、広い部屋で寝る
こんな家に暮らしてみたかった
ああ、なんという贅沢
一ヵ月なんてあっという間に過ぎた
今分かったのは、楽しい時間は経つのが早い、ということだ
のんびり過ごしていると、朝も夜も、すぐにやってくる
もうすぐ貯金も底をつくという頃、ついに「サイン」が目の前に現れた
サインは、声として現れる時もあれば、文字として現れる時もある、イメージで伝わる時もある
サインはどんなところにもある
私は導かれている
サインをたどっていくと、
私は、大きな森にたどり着いた
ここに私の願いがある
なんと愉快なことだろう
森の中は奇想天外なもので、私は夢の中にいるような感覚になった
この森には、たくさんの友達がいる、
そんな気がしてくる不思議な森だ
懐かしい家族のことも思い出した
子どものころ欲しかったウルトラセブンの人形が足元に落ちていたが、拾わなかった
さらに森の奥に進むと、濃霧に覆われていく
何も見えないと思ったが、その逆だった
なんでも見える
見たいと思ったものが濃霧の中に映し出される
壮大な映画も美しい音楽も、他人のプライベートも、重大な秘密も、見ようと思って見えないものはない
見たかったものが何度でも見られる
これまで叶わなかった夢も
過ごしてみたかった過去も
性的な欲求も
思い通りすべて見ることができた
充足感からか、眠くなってきて、
私はそのまま森の中で眠ってしまった
目が醒めると、私はまた見たいものを見た
どれくらい時間が経ったのか、10年とも20年とも思える時間の経過
理論上はありえない
飲まず食わずそれだけの時間を過ごせるわけはない、だが、この不思議な森の中では、なんだって現実に起こり得る感覚に陥る
気がついたら死んでいる、なんてこともありそうだ
私は見るのをやめ、そこを離れることにした
森を抜けると、草原に辿り着いた
目を擦ってから再び見開くと、森を抜けたというのが錯覚だったということが、すぐに分かった
草原の先は、また森に続く
私は森を抜けたのではなく、森の中にふと広がる特殊な空間に出くわしたのだ
月のクレーターみたいに、森の中にぽっかりと穴が空いているような、不自然な草原地帯
見上げれば満月が顔を覗かせている
星が幾つも流れ、月は色を変えていく
365回の星の軌道が頭上に輝いている
明らかに異空間だ
草原の中に、女が一人、立っていた
彼女は端正な顔立ちで、無表情だった
目の位置から鼻筋の高さ、口元の位置、
すべてが完璧というほど正しいバランスが取れている
人は美しさを正しさと思う
美しい人は正しい人である
しかし正しい人が美しいとは限らない
彼女は正しい
私は彼女に、叶わぬ恋の相手と同じ名前をつけた
美しいものもまた美しいものを好む
美しくない私は、いつも恋に敗れてきた
だが、森の中の彼女は、見たいものをすべて見せてくれた濃霧のように、私の思い通りになる
声も、言葉も、表情も、すべて思い通りになる
私は彼女に究極の美しさと可愛らしさを願った
私は彼女に、私を求めるように求めた
そして私自身も、柔らかい彼女の身体を抱きしめ、何度もその名前を呼んでキスをした
彼女にも私の名前を呼ぶように求めると、彼女もまた、私の名前を呼んで私を受け入れた
私は彼女に喜ぶことを求め、彼女は喜んだ
そして、好きです、と言わせたら
虚しくなった
何度も快楽を味わい、欲求を満たしたが、
すぐに渇いた
早く欲求を満たせてもすぐに渇く
何度も何度も満たして、そしてすぐに渇く
欲求はより過激なものにエスカレートしていった
そして、これ以上思いつかなくなったところで
私は彼女を優しく抱きしめた
「好きです」と彼女は言った
「私も幸せです」と彼女は言った
もう、言わなくていいよ
私の言う通りにするのをやめて
「分かりました」
すべてを出し尽くし、
虚しさだけが、残った
こんなに可愛い彼女を好きに抱いて、
なぜ虚しさが残るのか
この先の欲望は何か?
私は彼女に最後の欲望を伝えた
殺してくれよ、苦しまないように
「分かりました」
私は彼女に殺される瞬間、最初に願っていたことを思い出した、
それは、叶わぬ恋の相手に、愛されること
まだ叶っていなかった
森の先にあったのだろうか
こんなに大事なことを忘れてしまうなんて
私は死の間際、彼女の幸せを願った
神様、この願いだけは叶いますように
そして私の、心臓は止まった
私は欲望の存在に気づいていなかった
それは……
完