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政界入りまで

 ルーズベルト家の祖先は、1640年代にオランダからニューアムステルダム(ニューヨーク)に移住してきて、西インド諸島から砂糖やラム酒を輸入する貿易商として材を成した。

 その当時宗主国イギリスは英領以外の土地からアメリカに輸入される品物に関税を課していた。ルーズベルト家はその課税措置に反発し、独立戦争では革命派についた。その功績から独立後はニューヨーク州議会の上院議員やニューヨーク銀行の頭取を輩出した。

 父親は五十代、母親は二十代でルーズベルトを生んだ。母親は、病気を抱えた高齢の夫には何も期待せず、その代わりに一人息子の育児に全てのエネルギーを注いだ。この母親の過干渉を疎ましく思ったルーズベルトだが、母親の心情を察し、反発を可能な限り表に出さないようにとつめた。

 ルーズベルトには兄弟や親しい友人がおらず、両親に溺愛されて育ったため、自分を客観視することができないという面もあった。柔軟性や寛容さに欠けた性格はこの頃の人間関係に形成されたのだろう。

 14歳からグロートン校という私立の男子校で学んだ。その創設者はアメリカ北東部の富裕層に多くの信者を持つ、比較的リベラルな宗派の牧師だった。校長は公共への奉仕の重要性を説き、改革者たることを教えた。恵まれた境遇にある紳士の責務は、不遇な人々を助け、社会の水準を高めることにあると考えていた。奉仕活動に参加したルーズベルトは、冬は黒人の高齢女性の家で雪かきをし、夏はキャンプを設営し、スラムの貧しい子どもたちを招待する経験をした。

 在学中、親戚のセオドア・ルーズベルトが陸軍次官に任命され、米西戦争で活躍した。この頃からルーズベルトはセオドアにならって海軍軍拡論者になり、海軍マニアになった。

 進学先のハーバード大学では、大学の日刊新聞である「クリムゾン」の編集者として、エリオット学長が大統領選挙で共和党のマッキンリーと民主党のブライアンのどちらに投票するのかを直接自宅に乗り込んで尋ねた。ルーズベルトの突然の来訪に驚いた学長は思わず共和党へ投票すると答えてしまった。そのことを記事に書くと、全米の新聞がこのことを報じ、ルーズベルトは大学新聞の名記者として有名になった。最終学年で編集長になったローズベルトは誌面を通じ、大学側に大学改革として様々な要求を出した。

 在学中に人生の伴侶となるアンナ・エレノア・ルーズベルトと出会った。エレノアはセオドアの姪で、ロンドン郊外のアレンズウッド校で学んだ。校長は先駆的な教育をするので知られていた。

 エレノアは帰国後、慈善教会の活動に力を入れ、ユダヤ系やイタリア系の移民の子どもたちに体操とダンスを教えていた。交際中のルーズベルトはそこを訪れ、彼女のレッスンを見学した。その最中に具合が悪くなった子どもを家に送り届けると、その子がネズミが徘徊し、朽ち果てた部屋に大家族がひしめき合って暮らしているアパートに住んでいることを知って衝撃を受けた。

 勉強に熱心でないルーズベルトは当時さほど難しくなかった司法試験に合格して法律事務所に就職し、結婚した。1910年、ニューヨーク州議会議員の選挙に際して、民主党幹部に上院議員の候補者になるように請われた。弁護士稼業に飽き飽きしていたルーズベルトは敬愛する「伯父」のセオドアに一歩近づけると喜んで立候補することにした。

 もともと政策らしき政策を持たなかったルーズベルトは、多くの有権者と直接言葉を交わすことで、自分に票を入れてもらおうとした。そこで何か政策的なことを言うべきだと気づいた。選挙区の有権者の大半は農民であり、直接農民に関わる問題を取り上げるのがいいと考えた。そこで思いついたのが、りんごの樽を標準樽に統一するという提案だった。地元では農家が大きさが異なる樽にりんごを詰めていたため計量の際にトラブルが続出していたのだった。

 農民の日常生活に直結する問題をわかりやすく論じ、解決策を提案することで、ルーズベルトは有権者の心を掴んだ。上流階級の出でありながら、優しく気さくに声をかけてくれる「民主党のルーズベルト」というイメージ戦略が奏功してニューヨーク州の上院議員に初当選した。

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