上院議員から海軍次官へ
ニューヨーク州議会の上院議員になった二年間の任期中は、農民のための政策にも取り組んだ。議員としての活動を通じて、自分がこれまで当然だと思ってきたことが、普通の人々には当然でないことに気づいたという。驚きだったのは、人々の日々の生活に「安定」を求めていることだった。
この頃、アメリカでは自由主義がもたらしてきた社会の歪みを政府が介入することで解決していこうとする革新主義が興隆していたが、天然資源の保全はその中の重要な政策課題だった。地元農民が直面している農地の問題と当時流行の天然資源の保全というテーマを結びつけて論じ、州政府の主導によってその問題を解決しなければならないと主張した。
だがニューヨーク州議会でルーズベルトが最も注目を浴びたのは民主党内部での権力抗争においてだった。ニューヨーク州の民主党はタマニー・ホールと呼ばれる派閥が牛耳っており、貧しい移民らの票を買収して政治を腐敗させていた。そのボスがマーフィー。その頃、連邦議会の上院議員は各州の議会によって選出されており、マーフィーはその候補者としてシーハンを推した。ニューヨーク州議会の下院議員を長年務め、副知事も歴任したことがある大物政治家だった。
ルーズベルトは、この人選に反旗を翻した。アンチタマニー・ホールの議員を組織し、シーハンを上院議員に選ぶ投票をボイコットさせた。投票は定数不足で無効となり、シーハンは混乱の責任をとって指名を辞退した。
この時期にルーズベルトは労働問題にも開眼した。そのきっかけは1911年にグリニッチ。ヴィレッジで起こった縫製工場の火災で、働いていたイタリア系移民やユダヤ系移民の若い女性を中心に146人の死者が出た。
この火災の後、ニューヨーク州では他州に先駆けて労働時間の短縮や児童労働の廃止を定めた労働法や労働災害法、職場の安全衛生に関する法令が整備された。
この時期、のちに腹心の部下になるニューヨーク・ヘラルド紙の記者をしていたハウと出会っていた。ハウは、一年生議員のルーズベルトにニューヨーク州の政治を一から教えた。ただ、公人としての発言や行動、メディアへの対応の仕方を伝授した。「(たとえ嘘でも)何度も言い続ければそれが事実になる可能性がある」と説いた。
ルーズベルトは再選されたが、それよりも海軍次官を選んだ。1912年の大統領選挙は、再戦を目指す共和党のタフと、民主党はウィルソンを候補に選んだ。セオドアは革新党という第三政党から出馬し、史上稀に見る混戦だった。
民主党員であるため、妻の伯父であるセオドアではなくウィルソンを応援し、その時民主党の幹部やウィルソンの支援者と知り合った。その時にダニエルズと親しくなった。ダニエルズはウィルソンの当選に多大な貢献をしたことが評価され、海軍長官に任命された。しかしジャーナリストのため海軍に全く疎かった。そこで海軍に詳しい側近をつけたいと考えていた矢先に思い当たったのはセオドアに憧れて海軍マニアになったルーズベルトだった。海軍次官はセオドアが16年前に就いていたポストだった。31歳の次官は、それから一年余りで第一次大戦を迎える。
65000人の職員を抱える巨大な海軍省では、将校が大きな権限を持っていた。各地の海軍工廠で働く労働者の賃金も将校が独断で決めることができた。この独占的権限に異議を唱えたルーズベルトは賃金の決定権を次官に与える指令を出した。労働者に歓迎されたこの決定ののち、7年半の間、海軍工廠では賃金をめぐる争議がひとつも起きなかったと言われた。
ルーズベルトはメディアの注目を浴びることを好んだ。ウィルソン大統領は寡黙で目立つことが嫌いだった。ダニエルズもマスコミには冷淡だった。記者はルーズベルトに情報を求めるようになり、その見返りに好意的に報道した。
ルーズベルトは第一次大戦を挟んで7年間以上海軍時間を務めた。この大戦中の戦時経済は、政府の市場への介入を大きく認めるものであり、それが後年、ニューディールのモデルになったとも言われている。
1920年の大統領選挙で民主党から出馬したコックスの副大統領候補に選ばれ、海軍次官を辞任したが、共和党のハーディングに大差で負けた。
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