ニューディール政策の開始へ
ニューヨーク州知事に就任したルーズベルトは1929年施政方針演説の中で「世界の他の国々に対して一人一人が責任を持ち、互いに助け合っていかなければ、我々の文明は続かない」と説いた。
その就任から10カ月経った頃、大恐慌が発生した。地方レベルでの救済事業では失業者に対応しきれないと考えたルーズベルトは、州の機関として臨時緊急救済局を設立した。州政府は、社会的義務として失業者を救済しなければならないとした。
ルーズベルトは、失業者に直接現金を給付して生活を支援するのではなく、公共事業を通じて政府が雇用を創出し、失業者に仕事を与える仕組みを作ることを重視した。さらに緊急的な救済だけでなく、州レベルでの社会福祉プログラムの確立を目指した。その取り組みの中から、困窮している高齢者を救済するための老齢扶助制度がいち早く導入された。
ルーズベルトは1932年の大統領選挙の候補者として民主党内外で注目を浴びるようになっていた。フーバー大統領が大恐慌に対して無策であると厳しい批判を受けていたため、民主党には12年ぶりに政権奪還の可能性があった。
民主党の指名獲得に向けた選挙戦で、ルーズベルトが最も注目されたのは、1932年4月にラジオで放送された演説だった。今日アメリカ人が直面している苦境は、戦時に匹敵するほとの緊急事態であり、経済的なピラミッドの底辺にいる『忘れられた人』」も含め国民が総動員された第一次大戦のような大胆な施策が必要であると説いた。
そしてルーズベルトは大統領候補として指名された。その指名受諾演説で初めて「ニューディール」という言葉を使った。我々の手に「アメリカを取り戻す」ための戦いがこの大統領選挙であると主張した。
選挙運動の最中の9月には市場経済が大きな転換点を迎えており、急速な経済成長の時代は終わり、大企業による独占的な経済活動は、もはやアメリカ経済を牽引することができないと訴えた。すなわち、
「生産と消費を調整し、富と物資をより公平に分配し、現存する経済組織を人々のためになるように適応させるといった地味な仕事に取り組まなければなりません。賢明な政府が必要とされる時代が到来したのです」という演説内容は、ニューディールの思想的な系譜を明らかにしたものだった。
対するフーバーにも経済対策もあったが、景気は悪化の一途を辿り、1930年に9%だった失業率は32年には25%へと上昇した。ホームレスが寝泊りするテントや掘っ立て小屋の乱立している場所は「フーバービル(フーバー街)」と揶揄された。フーバーのイメージをさらに悪化させたのは、苦境に陥った退役軍人が恩給を前倒しして支払うように求めたデモで警官と衝突し、二人の退役軍人が死亡した。この時代を収集するために、ダグラス・マッカーサーが指揮する連邦軍を投入し、国民から激しく非難された。11月の大統領選挙ではルーズベルトが圧勝した。
1933年のルーズベルトの大統領就任演説は何千万もの人々がラジオで聞いた。
「恐れなければならないのは、恐怖心そのものだけだというのが私の固い信念です。恐怖心には名もなく、理屈にも合わず、正当化することもできないものです。恐怖心は、我々が後退を前進に変えるために必要な努力を麻痺させてしまうのです」
さらにこの演説で「この緊急事態に対処するために、広範囲にわたる行政権を与えてくれるよう要請する。外国の敵に我が国が侵略された時、私に付与される権限と同じような権限が必要である」と述べた。これに批判的な新聞は「ルーズベルトという名の独裁者が誕生した」と報じた。
ルーズベルトは長年彼を支え続けてきた忠実な部下を重用し、「ブレーントラスト」と呼ばれるアドバイザーの組織を作った。これには政治家のグループと学者のグループがあった。ルーズベルトはこの二つのグループの要となり、両者を巧みに使い分け、主に次官級をブレーントラストで固めた。
ブレーントラストの活用方法は、ルーズベルト独自のもので、様々な政策課題について科学的な知見を用いて検討し、専門分野に精通している人々を中心に政策を立案させた。それを国民に説明して、理解を得ることも重視され、政策の解説者や教育者としての役割を担った。ブレーントラスト内にあらゆる見解が出そろった後に自分で最終的な決定をくだした。ルーズベルトはアイディアを行動に変える「電話の交換盤」になるのが自分の役割だと考えていた。
アメリカでは1932年に1800万台のラジオが普及していた。これは全世帯の半数以上が少なくとも一台のラジオを所有していたことになる。ルーズベルトはこのラジオ放送を巧みに利用した最初の大統領だった。「炉辺談話」というラジオ番組を持ち、そこで「友よ」、「アメリカの国民の皆さん」という呼びかけをして、その時々の重要政策を取り上げて、国民に説明した。原稿は彼の手で誰にでもわかるように、何度も練り直された。
ルーズベルトは就任してから、まず第一次大戦中に制定された対敵取引法に基づいて国家が非常事態にあると宣言し、銀行の閉鎖に踏み切った。全国にある12の連邦準備銀行に追加的な通貨を発行する権限を与えて、銀行が預金の引き出しに対応できるようにする「緊急銀行法案」を提出から7時間で成立させた。
その三日後の3月12日にの最初の「炉辺談話」では、「マットレスの下にお金を隠しておくよりは、業務を再開した銀行に預けた方が安心ですと」と国民に語りかけた。これを6000万人が聞いたという。放送の翌日には、先日まで預金を取り付けるために銀行の前で行列していた人々が、今度は預けるために銀行に並んだ。その月末までに3分の2の預金が銀行へ戻った。
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