2000年代、小学校英語実践の積み上げと論争。大衆歴史ブームとの類似性

 2002年に始まった総合学習における英語活動は、私たちが英語学習と聞いてイメージするものとは相当のギャップがある。

 総合学習の時間に何を学ぶかは各学校が自由に決めてよい。その内容として国際理解に関する学習を選べて、その場合「外国語会話等」を行なってもよいという。

 2005年の調査結果を見れば、国際理解は必ずしも多数派ではなく、たとえば地域学習や文化・伝統に関する学習の方が人気があった。

 変化の激しい社会に対応できるように、子供の「生きる力」を育成し、この目的のもとで総合学習を導入する。その柱である国際理解教育は、子どもが国際化時代を生き抜く上で重要で、国際理解教育の構成要素の、外国語によるコミュニケーション能力の育成がある。そこに文部省が考える英語活動の方向性がある。

 しかし総合学習への英語の導入は妥協の産物という側面の方が強かった。英語早期化と学習内容削減という二つの相反する要求を同時に満たす最適解がこの英語活動だったから。

 こうして、内容的には国際理解教育色が強く、学習活動としてはスピーキングに比重を置いた実践が多数派となっている。

これは教科学と一線を画している。この小学校英語は教科ではなく総合学習として始まった。その初期条件は国際理解思考と学級担任主導で行われたという点にある。

 国際理解教育と英語学習の関連性は必ずしも自明ではない。関連性については、英語は国際共通語であるからという通用性から擁護される点と、外国語の中で英語が最も教材が充実しているからという実務面からの擁護がある。

 教育実践では、外国や異文化を素材にした内容を扱うことで国際理解教育との接点を担保する工夫がなされていて、機械的な言語学とは一線を画している。

 しかしこの国際理解教育らしさは教科書に見られ、戦中を除く戦前から異国文化溢れ、非英語圏を含めたコスモポリタンな作りになっていた。小学校英語が理念的には中学・高校の英語教育のアンチテーゼとしての性格を持ち、反面、カリキュラムや授業の組み立て方、教材の編成面では伝統的な英語教育の影響下にあった。

 2003年にスタートした構造改革特別区域(「特区」)に認定された地方自治体は、従来の法的規制に縛られず、自由な政策を行うことができる。この制度の教育版が教育特区である。これはまず外国人居住者の割合が高い群馬県太田市で認定されたのをはじめとして、制度変更前の2017年には2392校が指定された。

 これは私立小学校や研究開発学校で行われている英語教育を当地の公立小学校の文脈に合わせてローカライズしたものがほとんどだが、地域特区に申請した自治体の計画書を分析すると、「その自治体ならでは」といった必然性が感じられない金太郎飴的なプログラムが多数見られるという。

 また、特区申請した自治体についてみると、自治体の首長、あるいは教育委員会のリーダーシップや教育理念の影響が大きかったと考えられる。

 結局、英語特区や研究開発学校のあげた成果は必ずしもはっきりしない。もちろん教育の成果とは数年で目に見えるものではないし、成果が抽象的な表現でアピールされがちであることも考慮に入れなくてはならないが。

 またこの時期には、大きな話題となった「小学校英語論争」があり、これには一般人からも注目を集めた

 一般人は英語ができたらどんなに素晴らしいかという憧れを抱いている。しかし学校英語教育で見事に裏切られた。その恨みから小学校英語英語を望む世論があった。英語への「憧憬」と「怨恨」。そこには「小学校の頃から英語をやっていれば」という素朴な信念があったという。

 また大多数の人にとって小学校英語は「わかりやすい政策」であり、議論・論争への「参入障壁」もその分低い。

 この「参入障壁」の低さについて、以前ご紹介した「『勤労青年』の教養文化史」から興味深い部分を紹介したい。

 昭和50年代に、かつて若い時分に「教養」に浸ったことを懐かしがる中高年の間に大衆歴史ブームが起こった。

 難解な人文社会科学書、あるいは実証史学であれば、古文書を読みこなし、地道に史料批判を重ねる作業が必要だが、「歴史もの」は、そうした苦労をせずに、史的な流れや歴史人物の思考と思しきものを味読できる。ある歴史雑誌の「編集後記」にはこういう文章がある。

「思えば歴史は門戸の広い世界だ。何しろ数学や科学と違って定理というものはまるでない。説得力、照明力さえあれば誰もが異議を唱えていい。外に出て史跡を見て『なぜ、どうして』と思えば、もう立派にその世界の人、泡沫意見なんて言わせない。本号をご覧あれ」

 「歴史もの」もまた参入障壁が低く、大衆を巻き込みやすいジャンルでもある。

 しかし、天守閣、城郭、家紋、家系などに関心を持っても、それが自己目的化し、「歴史」への関心がそのこと以上に広がらず、断片的な「歴史」の消費で思考停止してしまう。

 2000年代に巻き起こった小学校英語への関心も「大衆歴史ブーム」とダブって感じられる。

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