ポリオ罹患から大統領当選まで
1921年8月、ルーズベルトはニューイングランドで流行していたポリオに罹患していた。今後治療を続けても足の筋肉の大半が失われて「腰から下は死んだ人間」になると宣告された。一年後、奇跡的に回復してきたとはいっても、子供たちにキスをするためにかがむことも、祈りを捧げるために跪くことも、自分で服を脱いだり着たりすることもできなかった。だが、自宅にいる時以外は、絶対に人前で自分を抱き上げてはならないと周りのものに厳命していた。
1924年、小児麻痺の少年がウォームスプリングで温泉に入り、リハビリを続けることで病から劇的に回復したという話を聞いた。ルーズベルトはウォームスプリングを訪れ、温泉に使って体操をし、リハビリを続けた。すると徐々に足の指に力を取り戻すのを感じた。ウォームスプリングに傾倒したルーズベルトは、この地をポリオ治療とリハビリの拠点にしたいと考え、私財を投じた。
この時、当地を開発する地元の労働者を雇った。その多くは黒人だった。初めて南部の黒人と親しく言葉を交わすようになって知ったのは、彼らの生活の貧しさだった。過疎地の貧困や人種問題について理解を深めるようになった。また他のポリオの患者とここで初めて出会い、病に打ち勝とうと懸命に努力している仲間を得て、大いに励まされた。
ルーズベルトは病を通じて人間の苦悩がどのようなものであるかを学び、憐憫の情を知った。精神的にも落ち着き、強い意志を持つことの大切さを学び、人間的に成長した。病気になる前は様々なスポーツに興じ、落ち着きがないほど活動的だったが、ポリオにかかってからは、一人で静かに思いを巡らせたり、他の人の話をじっくりと聞くようになった。
「(ポリオで)脚でバランスをとることできなくなったが、心でバランスをとることを学んだ」
もう一つ病気がプラスした点があった。健康であれば、1924年か1928年の大統領選挙に出馬して、共和党の候補に敗れていた可能性が高く、民主党が勢力を失っていた1920年代に政界から離れていたことが結果として彼のキャリアを救ったとも言える。
1928年の大統領選挙の時、ニューヨーク州知事のスミスが再び大統領候補として名乗りを挙げていた。このときスミスを推薦するための演説はラジオで全米に放送された。親しみやすさが感じられ、マイクを通じた張りのある声は、ラジオを聴く人々に強くアピールした。
応援の甲斐あって、今回はスミスが民主党の指名を獲得し、共和党の候補であるフーバーと争うことになった。ここでスミスがニューヨーク州知事をルーズベルトに譲りたいという申し出があった。
スミスの選挙区はニューヨーク市であり、ルーズベルトはニューヨーク州の農村部を地盤としていた。スミスはカトリック教徒だが、ルーズベルトはプロテスタント。カトリック教とはローマ教皇に忠誠を誓っているとみなされており、スミスが大統領になることに対して有権者の間には強い拒絶反応があった。この評価を和らげられる人物としてルーズベルトが担ぎ出された。
しかし、本人の同意を得ないまま、民主党の党大会でニューヨーク州知事候補に指名されてしまった。
一度選挙戦が始まると、共和党は彼のことを「障害者」「ジョーク」などと差別的に嘲笑った。しかしルーズベルトはこう言い返した。「身体を素早く動かすことができないので、共和党員のように責任逃れをしたり、批判を交わしたりすることができないのだ」
僅差でルーズベルトは当選した。