「もう山田太一作品だけでいいかも」とさえ
1年間に観た映画のベストテンを上げようと思っていたのだけど、去年あたりからなんだか億劫で気乗りがしなくなっていた。
もちろん個人的に鑑賞記録は付けているのだが、〝年間ベスト〟を上げる人は私以外にも沢山いるし、そういう答え合わせに今は違和感を感じている。
加齢もあってか新作だけでなく過去作への興味が今まで以上に増し、拾い直し鑑賞も多くなった。新しく出会った過去の作品だって、私にとっては「新作」だ。
中でも、山田太一作品。
2024年の一年間を通じて、私が一番思いを馳せた作家は山田太一だ。亡くなって一年。その不在を埋めるように鑑賞した。
『いくつかの夜』『異人たちとの夏』『異人たち』『思い出づくり。』『終わりにみた街(1982年版/2005年版/2024年版)』『輝きたいの』『それからの冬』『日本の面影』『時にはいっしょに』『教員室』『夢に見た日々』『深夜にようこそ』『あめりか物語』『タクシーサンバ』『沿線地図』『岸辺のアルバム』——
この一年、ずーっと山田太一作品に触れながら暮らしていた。「甘えながら」と言いかえてもいい。配信ドラマでなく、現在視聴困難な連続テレビドラマだという点も、(山田太一の言葉を借りれば)私を〝カッカ〟させた。
元々それなりに山田太一のファンだったのだが、失って一層求める気持ちが強まった。このいかにも自分都合な気持ちの有り様も、山田作品の登場人物のように思える。
また、この根気の要る長い視聴を可能にしたのは、他にもいくつか理由がある。
一つ目は『虎に翼』が面白かった事
全く関係ないようだが、連続TVドラマを鑑賞するというのは日々の暮らしの中で結構特異な習慣で、それを思い出させて貰った。登場人物の成長を見守るような鑑賞。たっぷりとした劇時間の共有。久しぶりに堪能した連続TVドラマだった。で、TVドラマ自体への熱が上がったのだ。
二つ目は、ジブリ月刊誌『熱風』で始まった頭木弘樹さんの『山田太一といっしょに山田太一ドラマをすべて見る』の連載
ジブリは昔に私自身が所属していた会社でもあり、作品以外の情報は極力距離を置くようにしていたのに、この連載を読みたいが為に定期購読を初めてしまった。それくらいこの連載は面白い。グスタフ・ヤノーホの著作に『カフカとの対話』という本がある。カフカ本人との回想録、憧れの人と過ごしたその時間、印象を捉えた作品で、エッセイ的にどこからでも軽く読めるのに何とも味わい深くてホロ苦くて、何度読んでも飽きない。頭木弘樹さんの山田太一連載はそれに似た感触があり、私を後押ししてくれた。
三つ目は、同じくジブリ絡みの鈴木敏夫さん著『体験的女優論』
昭和の女優さん(俳優さん)の個人的思い出を語っている本なのだが、ラインナップされている八千草薫さん以降の檀ふみ、佐藤オリエ、笠智衆、岸本加代子、杉村春子、樋口可南子、岩下志麻、二階堂千寿、寺山修司、石坂和子、山田太一、中島唱子、小林薫、石原真理子、時任三郎、手塚理美、佐々木すみ江、ミランクンデラ、栗原小巻、という全体の1/3以上が山田太一作品についての話なのである。直接的な体験でない観客としての俳優論に過ぎないのだが、それぞれの俳優が背負っていたイメージと時代によって担わされたイメージというプロデューサー的な視点が面白く、私的女優論としてとても面白かった。(この後、山田太一著『人は大切なことも忘れてしまうから/松竹大船撮影所物語』を読み、一層の面白さに酔いました)
話は逸れるようだけど、高畑勲さんが山田太一ファンなのはその著作でも周知の事だ。山田さんご本人との対談も残っている。
その影響を一番感じるのは、『おもひでぽろぽろ』という作品のあの〝山形編〟というオリジナルアプローチの仕方だ。なぜ刀根夕子/岡本螢さんのあのノスタルジックな原作漫画に、あのリアルな山形編が付け加えられたのか。どういう発端で〝婚期の迫った成人女性のエピソード〟が並走する事になったのか…?
山田太一の『思い出づくり。』は無関係ではないと思う。森昌子、古手川祐子、田中裕子に続く存在として、田舎に憧れる〝タエ子ちゃん〟を設定したのではないか。私はそのように想像した。後に発表された『かぐや姫の物語』を見ても、夢のような幼年期とそれを打ち砕く青年期という対比は、高畑さんの手に入れた作劇上の方程式に思える。
これ以降は、私の個人的な話になってしまいますが…。
四つ目は、私が定期的に開催しているアニメ絵コンテ講座
絵コンテ講座に通ってくださる受講生の中には「個性を出したい!」が先走ってくる人がいます。課題のシナリオをとにかく自己流に改変し、自分色を出そうとする。私自身過去に身に覚えもあるのですが、そういう場合、ほとんどが〝改善〟でなく〝改悪〟だ。シナリオを読み込めてもいないし、自分が楽しみたい事が先行し、バランスを壊し、シナリオの良さを絵コンテに移行すらできていない。〝以下〟にしている。
そんな時、私はいつも山田太一の言葉を例えに出します——
「私の台本は語尾の一つまで考えて書いておりますので、一字一句変えない様に芝居をして下さい」
額面通りに受け取れば、「なんてうるさい脚本家だろう」と制作現場は煙たく感じてしまうだろう。しかし、それをどう演出するかはいつもこちらの腕前次第なわけで、「愛している」というセリフだって、その演出次第では全く逆の意味として観客に伝える事だって可能である。つまり、それだけの覚悟で/意志で/精度で、脚本を読み解き、演出に配慮したのか。悲しいセリフには悲し気な画を、楽しいセリフには楽し気な画を、そんな自動思考で絵コンテを描いてないか。何となくどこかで見た事ある画を並べて、絵コンテを描けた気になってないか。そんな問いかけを、いつも受講生や自分自身に向けています。
そんな中での山田太一作品の継続鑑賞は、私にとって良い緊張感になったのです。自分だったらこのセリフをどうカット割りするだろう? セリフの力を信じきれず手癖で余計なカット割りをしてしまわないだろうか?——などと自分を律する規範にしました。
五つ目は子育ての事
私は今、絶賛子育て中で山田太一著『親ができるのは「ほんの少しばかり」のこと』という一冊の本に大変励まされています。この本がまた面白くて、親への教育指南書とかじゃ全然無くて、「親」という存在が如何に無力で無知で、子供といういち人間の育成の前では全くの役立たずで、むしろその役立たずのいちサンプルとして親は堂々とその姿を晒しましょう、といったような見事な本なのです。子供は親の言う事は聞かないが、親がしている事は真似をする。それをいつも再確認させてくれる本です。
夜泣きの子供をあやして朝方の家の前をうろつき、そこで朝刊の新聞配達の人と挨拶を交わした。子育てが終わって振り返ると、なんで子育て中はあんなに友達と飲み歩きたい、遊びに行きたいなんて思ったのだろうか、子育てこそがかけがえのない時間だった。神様が与えてくれた〝私だけの時間〟なんて事が書いてあるのです。(←こんな下手な要約じゃなく、もっと何気ない言葉で大切な事が書いてある)
人間って愚かで弱いけど、それって魅力的だよね。情けなくて惨めだけど、なんて豊かなんだろう。山田太一作品で描かれている事とこの本の主旨は変りません。つまり、私の生活全般、今の仕事や環境に山田太一作品はやたらと響いてくるのです。
それは山田さんのどの作品にも入っています。家族のおかしみ、豊かさ、煩わしさ、悲しさ…。それがこんなに飽きっぽい私を一年間も惹きつけ続けた理由です。
他にも、今野書店での會川昇さんの山田太一シナリオ本刊行イベント、頭木弘樹さん、長谷正人先生のイベントも楽しませて頂きました。NHKで放映された一周忌番組/ETV特集「山田太一からの手紙」もとても良かった。
去年一年、山田太一作品を鑑賞し続けて感じたその魅力、大好きなパターンを、最後に列記しておきます。そして今年もまた、これを継続したいと思っています。
〈山田太一作品の魅力〉
●日常の至る所に転がっている「人生はこんなものだ」という物語に、「そんなんじゃ嫌なんだよ」と主人公が異議を唱える。その小さな声から、山田太一のドラマはいつも始まる。
●物分かり良く、良い人でありたいと思っている年寄りが、それでも説教をしてしまう。そして、説教なんて聞きたくないと突っ張っていた若者が、年甲斐もないそんな年寄りの振る舞いに胸を打たれる。
●弱い者がより弱い者を励まし、でも二人して潰れてしまったそんな弱き者の姿を見て、行き詰まっていた強者がはじめて自分の弱さを認める勇気を持つ。
●人間関係には沸点があり、そこで生じたヒューマンエラーこそが未来なんだと、描かれる。
●世間的には良くないとされている事に惹きつけられる人々。えてして山田太一作品は臆病で頑固なモノが、しつこいくらいに逡巡しながらそれに惹きつけられていき、視聴者はそれを堪らなく見たくなる。
●攻撃的な籠城ではなく、臆病者の立て籠りが胸を打つ。
●「台本を一字一句変えないで下さい」が山田太一の脚本家としての姿勢だか、その作品中に描かれる人物はいつも、思い描いていたシナリオが壊されて初めて生き生きし、人生が切り開かれて行く。
●一つの気持ちの裏にある全く逆の感情、山田太一はいつもそれを露わにする。幸せの絶頂で想像してしまう不幸。生真面目な人の劣情。他人の幸せを一緒に喜んであげられない瞬間。その亀裂からいつも対話が始まる。
●マイナスが人を育てる。劣等感が人格を作る。
●人の世はいつだって分断してて、いつだってそれを乗り越えてきた。
2024年の年の瀬に『岸辺のアルバム』が再放送されていて、視聴し、改めて感動しました。311以前に、既に311で生じる様々な感情を、家族の再生する力を描いていたようにさえ感じました。
私は山田太一作品を見るたびに、この作品にもっと早く出会っていれば、あの時諦めた人間関係のその先に、実はまだ道が続いていたんじゃないかと思えてきます。自分勝手に「もう行き止まりだ」と決めてしまっていただけなんじゃないかと。
今ではもうインサイド山田太一がいて、色々な作品に触れるたびに山田太一反応を示してしまします。今年公開された『パストライブス/再会』を鑑賞した時も、「これ山田太一だよ」と思ってしまいました。
何かをするのではなく、何かをしなかったから表彰されるという事が人生にはあってもいいのじゃないか——その言葉を思い出したのです。