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崩れていく世界で/沖縄詩壇2000-2004

アスピリンを一錠手のひらにのせ、生温い水で呑みこんだ。

【月が満ちるたび強い飢えを覚えている】
君と僕は二人で一つ
この飢えは君を食べれば治まるもの
だけど僕に君は食べれない
哀しみは僕のものではなく
君と僕の最後の願い
傾きかけた塔の中
赤いワインを舐めあって
遊び続けた君と僕
【世界は崩壊した。僕達は一つに戻らなければならない】
崩れていく世界には僕達二人は多すぎる

有馬秋人「月齢」冒頭(昭和薬科大学附属高校文芸部「文」2000年)

 沖縄の2000年以降の詩を取り巻く状況を振り返り、この20年余で新たに登場してきた書き手の作品に迫る。第1回目の今回は、2000年から2004年までの5年間に焦点を当てたい。

 冒頭で引用した詩は、昭和薬科大学附属高校文芸部の文芸誌「文」に掲載された有馬秋人さんの「月齢」(冒頭)だ。2000年という時代の空気感をよく表していると思う。この年の「文」には有馬さん以外の人を含め、書き手の終末観を反映した詩や、厭世的な詩がいくつも並んでいる。バブル経済が崩壊し、成長から見放された日本で十代を生きる書き手は世紀末の押し迫った2000年、どうしようもない閉塞感のただ中にいたのだと知ることができる。

 「月齢」にはアスピリンという言葉が登場する。偏頭痛を訴えると処方される印象がある薬だが、非ステロイド性の解熱鎮痛剤で正式名はアセチルサリチル酸というそうだ。19世紀末、世界で初めて人工合成された医薬品で歴史が長い。体内の伝達物質の合成を抑制することで痛みなどを抑える。ただ効果のしっかりした薬はその半面、さまざまな副作用をもっている場合がある。

 崩壊していく世界に〈僕達二人は多すぎる〉のだという。詩の語り手が、薬を服用して体内の伝達物質の合成を抑制しなければならないのは、なぜなのか。多様な副作用を持つ効き目の強い薬を服用し、まひさせなければならないほどの痛みに苛まれているのだろう。右肩上がりが当然だった時代を生きた上の世代と断絶され、どのような時代を生きることになるのかが不明なまま将来を展望せねばならず、そしていずれ就職氷河期や未曾有の低成長(後退?)時代を経験することになる1990年代の青年たちが、十代からこういった感覚を創作物に託していることは、今振り返ってもとても自然なことのように思える。
 「月齢」の終わりのほうは、次のようになっている。

隻腕の神が僕をせかす
君と僕は二人で一つ
世界が壊れてしまった今
交ざらなくては生きていけない
けれど僕には君は食べれない
薄く色づく君の喉に唇をあて
噛みつきたい衝動を
必死の思いで耐えている
【月が浅く息づいた。僕の心を掻き立てながら】

 アスピリンを一錠呑みこんだ
 アスピリンを二粒口に含む
 アスピリンを水に落とし飲みくだした
 全てを終わらす為だけに
 アスピリンを飲み続ける

醒めていく視界の片隅に
無造作に開かれた窓が一つ
柔らかな光が差し込んでいた

有馬秋人「月齢」終結部

「文」にはこの詩に限らず、「崩壊」「死」「殺す」などのネガティブなワードが頻繁に出てくる。悲観的な語り手によって困難な状況が描写される詩がいくつもある。この文芸誌の表紙にはタイトルのほかに、カミソリの絵だけが描いてある。こういったネガティブな視線を世界に投げる感覚は十代特有とも言えるかもしれないが、この頃に始まり現在につながる困難な時代性と、切り離すわけにもいかないだろう。その中で有馬さんは魅力的な作品をいくつも発表し、混迷の時代に詩才を花開かせた優れた書き手だったのだとあらためて思う。

昭和薬科大学附属高校文芸部「文」2000年

 2000年から2004年の沖縄の詩壇は、新人の登場がきわめて限られていた。沖縄県文化振興会が主催する「おきなわ文学賞」が始まるのは2005年、琉球大学のびぶりお文学賞に詩部門が設立されるのが2011年だ。沖縄の詩壇においては主にこの二つの文学賞が、詩集を発行せずとも詩の書き手が作品を世に問うことができる場となっている。これ以外では競争率の激しい東京の詩誌へ投稿するか、詩集を対象とした山之口貘賞ぐらいしか力試しのステージがなかった。2004年までは県内に詩壇への登竜門が存在しない、新人にとって厳しい冬の時代だったのだ。

 その中で若い書き手の詩を読むことができたのが高校文芸誌だ。この期間も、沖縄県高等学校文化連盟の文芸図書専門部が毎年、文芸誌コンクールを主催してきた。毎年、7~10校程度の高校文芸部が1年間の活動の成果をまとめて応募する。中には「文」のような、印象的な作品が残されている文芸誌もある。

2000年前後に発行された沖縄県内の高校文芸誌

 一方、山之口貘賞は新人賞ではないが、それまでと受賞作の傾向に変化がみられたのが2003年だった。第26回山之口貘賞に松永朋哉さんの詩集『月夜の子守唄』(私家版)が選ばれたのだ。21歳での受賞は当時、この文学賞で史上2番目に若い受賞だった(後年に西原裕美さんが19歳で受賞して史上2位の記録が更新される)。
 2003年の選考委員は知念榮喜さん(H氏賞、地球賞)、花田英三さん(山之口貘賞)、天沢退二郎さん(現代詩手帖賞新人賞、宮沢賢治賞)の三人だった。

 応募された8冊の詩集の中には20代から30代の書き手による詩集が3冊あった。
 選考の経過は花田さんが「琉球新報」に掲載した選評に詳しかった。親川早苗さん(当時34歳)の詩集『パピヨンの森で会おう』について花田さんは「さすがに若々しく言葉が跳ねているが、とりとめがなく、歌詞だと思った」と評し、伊波泰志さん(当時21歳)の詩集『柱のない家』には「〝飽食の時代〟の青春を生きている人の処女詩集で『飽食』という詩で始まり〈もう、飽きた。〉と書く」「パロディーが好きでふざけるのが好きで思いつきが好きでしゃべり出したら止まらない。心からの笑いがないのは仕方ないことかもしれない。不安定で私は次作を期待した」と評している。
 そして松永さんの『月夜の子守唄』については「本の作りからして初々しく未熟で、詩も陳腐かと思えば一瞬の閃きがあり、困った」と書いている。

悪魔よりも慈悲深く
野獣よりも寛大で
神様よりも非情で
天使よりも冷酷な私

松永朋哉『月夜の子守唄』

という詩句を引いて「乱暴なくらい真っ直ぐ、この人は詩を掴む」と評す。
さらに「鏡」という詩の引用。

こぶしで殴ったら
私が
輝きながら
壊れていった。

松永朋哉「鏡」

花田さんは「原石の魅力。しかし全体として不安定過ぎ、私は次作を期待することにした」としている。ところが選考会で花田さんが平川良栄さんの詩集『独白』を推薦した一方で知念さんが『柱のない家』を、天沢さんが『月夜の子守唄』を推したのだという。
 その上で花田さんは以下のように書いている。

「こうも意見が分かれたのは私としては初めての経験で武者ぶるいしたが、それ以上に、お二人共が若い人の作品を推したのには正直いって驚いた。私としては『柱…』も『月夜…』もまだ若書きで不安定過ぎると退けていたのである。でも一方で『独白』に決まったのでは無難過ぎてつまらないとも思っていた。私は次第にやぶにらみになり、次第に意見を変えていく自分に気付いた。(不安定で未熟な魅力ある原石を発見することこそが選考の役目ではないか)—私は意見を変えた。爽々しかった」。

花田英三「老年の詩人たち、若年の詩人たち」/「琉球新報」2003年7月29日

 かつて「琉球新報」の「琉球詩壇」が投稿欄だった時代(1990年代初頭まで?)にはそこから多くの書き手が見いだされた。雑誌「新沖縄文学」にも詩の投稿欄があった。同人誌に所属し、詩集を発行し、山之口貘賞を受賞したメンバーらが沖縄の詩壇を構成していった。しかし90年代前半には「琉球詩壇」が投稿ではなく同人誌などからの転載や新聞社からの依頼によって作品を掲載する形に変わり、「新沖縄文学」も終刊。新人の登竜門となる場が失われ、新たな書き手が長い期間、不在となっていた。

 冬の時代が続いていた2000年代前半、高校文芸誌を巡る継続的な取り組みや山之口貘賞にも新たな世代が登場してきたことによって、状況に変化が生まれつつあった。
 次回は「おきなわ文学賞」が始まった2005年を振り返る。

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