あれから30年・個人的な思い
阪神淡路大震災が起きた時、私は大阪の郊外で一人暮らしをしていた。
その大阪でも、ものすごく揺れた。ブラウン管のテレビが前向きにひっくり返っていたし、花瓶も割れて床が水浸しになっていた。
それまで30年近く生きてきて、体に感じる地震なんてほとんど経験したことがなかったので、地震だと認識するのに時間がかかった。最初は、ここだけに起きた何かの事故か災害だろうかと考えていたような気がする。
まず、大きくて重いテレビを「エイヤッ!」と起こして、ニュースを見ようとスイッチを入れた。
大きな地震が起きて、どうも神戸方面がもっとひどいらしいということがわかった。(まだ映像はなかった)
ここらへんが一番ひどいはずだと思っていたけど、それどころではない大変なことが起きているというのが、だんだんわかってきた。
明るくなってきて、最初に見たのが阪急伊丹駅が崩壊してしまっている映像だった。すぐに思ったのは、父が入院している病院は大丈夫かということ。
地震の直後は通じた固定電話も、すぐに不通になってしまい、病院に連絡することもできない。とりあえず、唯一動いていた路面電車を乗り継いで、大阪市内の病院へ向かった。
病院は無事だったし、父も案外ケロッとしていたけれど、11階にある病室は余震のたびに結構揺れた。そのたびに看護師さんが、小さく「きゃっ!」と声をあげていたのが印象に残っている。
3月にはオウム真理教によるテロがあり、7月に父が59歳で亡くなった。
被災された多くの人が、必死の思いで大阪までたどり着いたら、何も変わらない日常があって、その落差にショックを受けたと口にしている。
まったく17日より前と同じではなかったけど、オフィス街では男の人はスーツを、OLらしき人はきれいな洋服を身につけて、足元はパンプスの人が多かったはずだ。
瓦礫の街から、着の身着のままで、大きなリュックサックを背負って来た人たちの目には、別世界のような、信じられない様子に映っただろう。誰にともなく、怒りの気持ちがわきあがった人もあったと思う。
そういうことに対して、ずっと後ろめたいような気持ちを持ち続けていた。
でも、最近になって思うのは、同じように被災しなかったからこそ、少しだけでも、大変な目に遭った友人や知人のサポートをさせてもらえたのではないかと。
それはそれで、ちゃんと私なりの役目があったのだと思いたい。
私も被災はしなかったけど、あの頃は末期がんの父を抱えて、頼れる人もなく、まさに孤軍奮闘していた。そう、私もがんばっていたよ。
だんだん父が亡くなった年齢に近付いてきて、あらためて、それだけ長い時間が過ぎたということに驚く。母の年齢(享年48)はとっくに超えたけど。
今日は、被災者ではない私でも、個人的に大変だったこと、悲しいことがたくさん思い出される。もう会うことが叶わない人のことを、静かに思い出す1日にしたい。