極度の人見知りっ子がソプラノ歌手になった
こんにちは、雅です。
今日は私がなぜ歌と出会い
なぜソプラノ歌手になり
なぜ今も歌を愛していられるのか
これまで誰にも話せてこなかった
プライベートな軌跡をお話ししたいと思います。
私の家族は7人家族。
歌謡番組が大好きで、テレビを観ながらいつも気持ちよさそうに歌っていた父。
クラシックを聴きながら、ピアノを恥ずかしそうに弾いていた母。
お酒とカラオケが大好きで、演歌を愛してやまなかった祖父。
よく喧嘩しながらも仲の良い一つ下の妹と、ほんわかした笑顔の八つ下の妹。
そして、静かに家事をこなし黙々と働いていた祖母
ピンクレディの歌を妹と振り付きで歌ったり、家族の前で歌謡ショーをやったりと、それはそれはとても賑やかな家族でした。
そして今でも鮮明に覚えていること
それは私たちが歌うと家族が満面の笑みで手拍子をして、喜んでくれたこと。
私の歌でこんなにも人を楽しませることができるんだ!!と、幼な心に興奮したものでした。
しかし、、、、
家では自由奔放で賑やかな私でしたが、一歩外に出るとなぜか石のように固まり、一言も喋れなくなる極度の人見知りっ子だったのです。
保育園の時には どんなにいじめられても無反応。業を煮やした男の子が私の泣き声を聞きたくて思いっきり手を噛んできたこともありました。
しかーし、それでも無反応・・・。
実はとっても痛かったのです。
でも、何でだろう?
声が出なかったのです。
そして、桜咲く春
小学校に入学。
私を心配した母は、職場の昼休みに時々学校に訪れ、教室の窓から私の様子をこっそり伺っていたほどでした。
そんな母の心配どおり、2年生まで一人も友達がいない日々を私は淡々と過ごしていました。
そんなある日、
母が私をある舞台に誘ってくれました。
「あなたと同じくらいの小学生の子たちが音楽劇をやるから観に行くわよ!」
今思えば、あの日が私の歌人生の起点だったように思います。
それは地元の少年少女音楽劇団の公演・グリム童話の「金のガチョウ」。
それはそれは不思議で面白くて音楽もコミカル !
前のめりになり夢中に見入ったのを覚えています。
観客が一緒に歌うシーンではお客さんの手拍子や拍手、そしてたくさんの笑顔が会場に響き渡っていました。
そうなんです !
家族の前でショーをやった、あの時の感動が蘇ったのです。
そうだ!!
私はこんな時間が欲しかったんだ!
こんなふうにたくさんの人の心を楽しませたい!
そう気づいた瞬間、私は母に言い寄りました。
「お母さん、私もここに入りたい。」
それまで無表情だった私が、初めて自分からやりたいと母に迫った出来事でした。
その後、
音楽劇団に入った私は毎日、歌、歌、歌の日々でした。
初めて手にした楽譜は「野ばら」「灯台守」だったのを憶えています。
なんてきれいなメロディと歌詞なんだろうとうっとりしたものでした。
美しいメロディをみんなと一緒にコーラスで歌う。
何度歌っても疲れることはありませんでした。
私にとって歌うということは
その音楽と歌詞の世界に想いを馳せて
空想の世界に飛んでいけるもの。
つまり、自分の心も癒される一つのツールだったような気がします。
だから長い練習もちっとも苦ではありませんでした。
気がつくと、あんなにも硬く閉ざしていた心が歌うことでほぐれていったのです。
おしゃべりはやっぱり苦手でしたが、人前で歌うことは全く抵抗感が無くなったのです。
そして、合唱コンクールや音楽劇などの舞台を何度も経験してしていくうちに、やがて極度の人見知りっ子の汚名は返上し、少しづつおしゃべりもできるようになり、仲のいいお友達もたくさんでき、やがてソプラノ歌手としてステージの上で歌えるようになったのです。
あの日、母が私の背中を押してくれたことで
たくさんの歌と出会い
その旋律と歌詞に心を育ててもらったのです。
歌にはそんな力がある。
人の心を優しく、あたたかく、希望で包み込んでくれる力が。
家族の笑顔と手拍子、
あのときの観客の興奮と笑顔、
そして色鮮やかな世界を垣間見せてくれる歌の言葉たち
そして時には嵐のように強く、時には早春の風のように優しいメロディ
そうした歌を私も届けたい。
今もその想いで歌い続けています。
これが私の歌との出会い
極度の人見知りっ子がステージで舞うソプラノ歌手になった軌跡です。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました(^^)
次回は「あのときに誘ってくれる童謡・唱歌」をお送りします。