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不完全を愛する競馬ファン~メイケイエールと寺山修司の一文に寄せて

愛される馬の条件の一つに、「不完全」がある。

逆に言えば、完全な馬は、不完全な馬程人気を集めることができない。これは結果が至上の世界においては逆説的に聞こえるかもしれない。
説明すると、完璧な結果を残した馬はそれで十分。そうでなかった馬はファンの愛が欠損した結果の部分を補填する、ということ。言うなれば「結果が至上だからこそ」の帰結である。記録と記憶は必ずしも比例しない。王・長嶋がそうだったように。

では、完璧な結果を残した馬には何が与えられるのか?それは「畏怖」「敬意」といった感情だ。だから私は、「一流半は愛される。一流は恐れられる」という認識であらゆる競技を見ている。

近々の最も良い例がメイケイエールだ。

G1を勝てなかった馬がこうもファンの人気を集めるのかと、私は複雑な感情でこの馬のことを見ていた。
もちろん、重賞を6勝もしているのだから能力は一流を超えるものがあった。3歳~4歳時はG1を勝つ力が十分にあったと私も思っているが、それを気性難が妨げた。
本来、騎手が卸せなくなる程の気性難は競走馬にとって致命的で、マイナスにしかならない。それでも、ファンはその「やんちゃ」ぶりを心から愛した。G1未勝利にもかかわらず、アイドルホースとしてぬいぐるみが製作され、引退式も執り行われた。その不完全さを愛したファンが実現させた、極めて稀有な事例と言っていい。

本来はみ出し者ややんちゃを嫌うはずの日本人が、こと競走馬に関してこのような馬に愛情を向けるのはなぜか?
メイケイエールについては、レースに出ると前進気勢が強くなりすぎる。つまり、「一生懸命に走りすぎてしまい、それが空回りしてしまう」のだ。そして、陣営はその課題を克服しようと、毎レース試行錯誤を重ねた。その物語も含めて、ファンは自分の体験―何とかしようとしても上手くいかないこと―を重ね合わせたのではないか。

月並みな話にはなるが、ファンは競馬に「自分」を投影する。そして、「自分」に最も共鳴を感じた馬を、あるいは騎手を応援する。

上の例で言えば、頑張っても報われない自分を応援するように、試行錯誤を重ねて結果を出そうとするメイケイエールを応援する。そんなファンが大勢いた、ということだろう。
これが完璧な人生を送ってきた人間ならば、シンボリルドルフの様な非の打ち所のないレースをする馬を応援するだろうし、破滅的な人生を送って(あるいは望んで)きた人間ならツインターボやパンサラッサの様な一か八かのレースに懸ける馬に入れ込むのではないか。

ここまでお相手いただいた読者の皆様なら、この言葉の意味が分かるはずだ。

競馬が人生の縮図なのではない。逆だ。人生が、競馬の縮図なのだ

競馬に人生を重ね合わせたとき、その人にとって競馬が主、人生が従の関係となる。まず競馬があり、次に自分の人生がある

競馬も人生も、その本質は変わらない。そして、馬と人の数だけそれぞれの「LIFE」(注:筆者はあまり「馬生」というない単語を使いたくない)がある。人が馬に自分のLIFEを重ね合わせたとき、馬への、そして自分への愛が溢れ出すのだろう。
「不完全」なあなたに愛すべき存在が現れることを祈って、私はここで筆を置きたいと思う。


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