現代宮城風土記#42:若林城
若林城
伊達政宗個人の居所として造営された城。政宗は1628年から1636年までの8年間、多くの時間をここで過ごした。政宗の死後は後を継いだ伊達忠宗によって廃止され、建物は仙台城二の丸等に移築されたといわれている。明治以降は宮城監獄、宮城刑務所となって現在に至っている。
「若林」の由来は不詳だが、達磨大師が9年座禅を組んだとされる『少林寺(わかばやしじ)』にちなんだものとも言われる。仙台市の政令指定都市化の際には城があった場所を含む「若林区」が誕生した。
朝鮮ウメ
宮城刑務所内に植えられている梅の巨木。『臥龍梅』とも呼ばれる。文禄の役で出兵した伊達政宗が朝鮮から持ち帰ったと伝えられ、元は仙台城に、後に若林城に植え替えられたといわれる。国の天然記念物に指定されている。現在は刑務所内にあるので一般公開されていない。
蟠龍の松
宮城刑務所内にあるクロマツの木。読み方は『はんりょうのまつ』。推定樹齢が360年を超えるといわれる老松で、現在でも成長を続けている。伊達政宗晩年の居城であった「若林城」の庭園に植えられていたものとされ「土井晩翠」がこの名前を付けた。一般には未公開。
城下町
若林城の完成にあわせ、仙台城下町も南端の田町から南東方向に拡張され、若林城下町となった。奥州街道沿いの町人地として荒町から河原町までが町割され、その周辺に城の建設に関わる職人屋敷などが移転・設置された。また若林城までは河原町から城まで向かう東西の道が通っていた。
「仙台鹿の子」の記述によると、東と南は原野で、西は土樋・石垣町、北は三百人町までの東西約3km、南北約1.5kmの範囲が若林城下だったと推定される。仙台城下と双方に屋敷を構える家臣も多く、後世の記録には無い『米町』や『絹布町』などの町名があった。
若林城下の主な町名
荒町
御譜代町の1つで本荒町(現・一番町)に配置されていたが、寛永年間に現在地に町が移動した。麹の専売権が与えられていた。また麹製造の閑散期である夏には渋団扇を製造していた。現在でも概ね同じ場所に商店街を形成している。東北学院大学の新キャンパスができて活気づいている。最近になってラーメン屋が増えた。
南鍛冶町
奥州街道沿いの町人地で「荒町」と「穀町」の間にある。仙台開府当初に鍛冶職は元鍛冶町(現・国分町)に配置されたが、後に伊達家の米沢以来の鍛冶職が当地に移転した。逆L字型の町で、「元茶畑」に接続する道の角に火伏の神「三宝荒神社」がある。
穀町
奥州街道沿いの町人地で米問屋が並んでいた。北には「南鍛冶町」、南には「南材木町」がある。「立町」「新伝馬町」「二日町」と共に穀類売買の特権を与えられて「四穀町」と呼ばれていた。南鍛冶町との境目には城下町特有の枡形の道が残っている。
南材木町
若林城の造営時に若林材木町として割り出され、廃城後に南材木町となった。材木と煙草の専売権を与えられていた。町の中央を七郷堀が横切っている。戦災を免れたため現在でも「旧丸木商店」や「小林薬品」のような土蔵造りの建物等が点在している。
河原町・新河原町
藩政時代は仙台城下町の南端にある町で『丁切根』という木戸が設置されていた。また青物市場も置かれていた。広瀬橋に近い場所は『下河原』また五軒の茶屋があったことから『五軒茶屋』と呼ばれ、明治以降は『新河原町』と呼ばれた。
河原町横丁
「河原町」から「行人塚」に至る横丁である。地図によっては表記されていない場合もある。また昭和期の地図では道の南側が『新河原町』、北側が『新河原町東裏町』と表記されている。現在は西から東に向かう一方通行の道路で、住宅や商店が並んでいる。
行人塚
かつて仙台市にあった地名。頻繁に氾濫する広瀬川によって困っている人々を救おうと人柱になった行人(山伏)を祀る塚を気づいたのが名称の由来とされる。大正時代の地図には記載があるが、現在はほぼ同じ場所に古城神社がある。また、地名としては残っていないが、踏切に名前を残している。
古城
伊達政宗が晩年に築城した若林城の跡を中心とした地区で、現在でも当時の堀跡の一部が残されている。若林城は政宗の死後は廃城となり、周囲は寂れていた。明治になって宮城集治監(現・宮城刑務所)がおかれ、周辺は宅地化した。現在も主に刑務所や少年院、宅地となっている。
石垣町
荒町の毘沙門堂前から土樋までの細い一本道で、「若林城」の築城に伴う城下の拡張に際し、石垣衆(御作事方)と呼ばれる足軽の屋敷が置かれたことが名称の由来。広瀬川に向かって緩やかな坂になっている。現在は住宅街になっている。
石名坂
藩政時代は「仙台七坂」の一つに数えられた。若林城造営時に町割され、足軽屋敷が置かれた。町名の由来は、この地の出身であった吉原遊郭の遊女「石名」にちなむと伝えられるが定かではない。宮沢渡しから城下に向かう古い道筋の一つ。現在は住宅街。
土樋
名称は五橋付近からの湧水を土の樋をかけて水を流したことに由来する。藩政時代には侍屋敷のほか鷹匠や餌指が多く住んでいた。現在は愛宕大橋で若林区と青葉区に分かれていて、青葉区側には東北学院大学のキャンパスがあり、若林区側は住宅街になっている。
姉歯横丁
荒町から真福寺前に向かう侍丁で、若林城築城の際に造成された。名前はこの通りに住んでいた姉歯八郎右衛門という人が由来と言われる。明治維新後に真福寺から広瀬川対岸に渡る橋ができた(後の愛宕橋)。また、初代仙台区長の松倉恂がこの通り沿いに住んでいた。
六道の辻
仙台城下町にあった変則六叉路。若林城の建設に伴って城下町が拡大されたが、それ以前に建設された城下の道とは方角にズレのあったため、東五番丁、東六番丁、北目町通、清水小路とその中央を通る四ッ谷用水によって変則六叉路が形成された。現在は消失し、鉄道のガードとなっている。
移築遺構
若林城は政宗の死後に廃止され、建物は仙台城二の丸等に移築されたといわれているが、現存しないため詳細は不明である。他に若林城から移築されたという伝承のある建造物が以下の2つである。
門:松音寺山門
「松音寺」の山門。寺伝では1639年に「若林城」の山門を2代藩主・忠宗から拝領したものであるとされている。切妻造、桟瓦葺、三間一戸の薬医門。松音寺は1888年に長泉寺と併合して現在地(旧・長泉寺境内)に移転しているが,山門もその時に移築された。仙台市の登録有形文化財。
裏門:正楽寺山門
「正楽寺」の山門。三間一戸の櫓門形式の八脚門で、屋根は切妻造、桟瓦葺。元は2階部分が鐘楼となっていた。1742年に建造されたものだが、若林城から移築したものという話が伝わっている。旧城下町の範囲で藩政時代から残る数少ない寺社建築。仙台市の登録有形文化財。
おわりに
いまいち分かっていないことが多い印象。何かのタイミングで発掘調査が行われて、何か新しいことが分かるといいな。
そのうち若林城下の範囲を示す図でも作ろうかな。
更新履歴
2024年10月9日:記事を作成。