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現代宮城風土記#41:仙台城下町の構造と現代の町


仙台城下町

 伊達政宗によって形成された城下町。城の大手門から伸びる東西の幹線道路として「大町通」と、南北の幹線道路として「奥州街道」を整備し、そこから町割りを定め、幾度かの拡張を重ねた。武家地、寺社地、町人地の3つに分けられ、武家地が城下の6割を占めていた。

町割の基準

奥州街道
 江戸時代の五街道の1つで、厳密には江戸から白河までをさしたが、実用上では青森の三厩までを指し、現在も大部分は国道4号となっている。仙台城下では途中折れ曲がりながら南北に貫く大通りで、通り沿いに町人地が割り出され、南から河原町、南材木町、穀町、南鍛冶町、荒町、田町、染師町、北目町、柳町、南町、芭蕉の辻を挟んで、国分町、二日町、北鍛冶町、通町、堤町が配置された。仙台市中心部では戦災や道路の拡幅によって往時の面影は乏しい。

奥州街道

大町通
 仙台市の道路の通称。仙台城下町では大町通が東西の基線で、メインストリートであった。戦後になって大町通と並行している広瀬通と青葉通が拡幅・整備されたため、往時の活気が失われた。現在、この通りの東側はアーケード街「マーブルロードおおまち」となっている。

大町通

芭蕉の辻
 江戸時代に仙台城下町の中心であった十字路。仙台城の大手門からのびる大町通と奥州街道が交差する地点で、町割りの基点となっていた。現在は往時の権勢は失われたが、宮城県の道路元標が設置されており、日銀仙台支店があるなど、金融の町としての姿を残している。

芭蕉の辻

町名・丁名

仙台城下の「丁」と「町」
 仙台城下では、侍の住む屋敷がある地区とそこを通る道を含め『〇〇丁(ちょう)』といい、主に町人や足軽の住んだ地区を『〇〇町(まち)』といった。現在の仙台市では丁が町に置き換わっていたり、読み方が変わったりして『町(ちょう)』となっている例が散見される。

仙台城下の『〇〇通』
 仙台城下において町名、地名に繋がる道や著名な寺院の門前に向かう道とそれらの道に面した土地を含めて『〇〇通』と呼んだ。1970年の住居表示によって現在はその地名の多くは消滅しており、戦後につけられた道路通称としての『〇〇通』は概ね上記の法則を踏襲していない。

町割

城下町の町割と名称
 仙台城下の町割は、道路をはさんだ両側で町が形成されていた(両側町)。この町割が明治以降の住所に引き継がれていたが、交差点部分の飛び地や町数の多さによる煩雑さ、道路の改良や都市計画で一致しない箇所が増えたことから1970年の住居表示によって現在の住所となった。

町人屋敷の配置
 仙台城下において町人は主に奥州街道と大町通沿いに配置された。開府当初は御譜代町を中心に、国分町や二日町、材木町などがあった。城下町が拡張された後は町人町が24となり、それぞれの町に専売商品を扱う特権が与えられた。現在も地名や道路に名前を残しているものが多い。

職人屋敷の配置
 仙台城下において職人は町屋敷の裏や足軽屋敷に隣接した場所に置かれ、大工衆は大工町、鍛冶衆は鍛冶町など、職人の名前と町の名前が概ね一致していた。城下の拡張後などで町が移転した場合は「北鍛冶町/南鍛冶町」「元鍛治丁」などと区別された。現在でもいくつか地名として残る。

仙台城下町の拡張

 仙台城下町の西側・北側はほぼ概ね変化がないが、東側・南側には何度か拡張している。開府当初の南端は田町、東側は南半分が東六番丁まで、北一番丁以北は奥州街道までの範囲だったが、寛永年間に若林城の建設に伴って城下が拡張され、荒町から河原町までの町人地や付随する足軽・職人町、北四番丁までの奥州街道以東の範囲、東七番丁以降の侍屋敷が建設された。
 正保・寛文年間には仙台東照宮が建設され、その門前町である宮町と奥州街道以東の北六番丁まで拡張。また鉄砲町・二十人町が町割りされ、城下と原町宿が連続するようになった。
 延宝年間には北七番丁以北、小田原地区が城下として拡張され、後に飢饉で一部荒廃するものの概ね後世まで残る城下町が完成した。

侍屋敷の配置
 仙台城下において、藩政時代の侍屋敷は階級によって屋敷の立地や敷地面積が定められていた。重臣は川内、片平丁、中島丁に配置され、足軽は各街道沿いの端や城下の周縁部に置かれた。現在の地名や道路の名前として当時の地名が残っているものも多いが、屋敷の面影は少ない。

城下の出入り口

御仲下改所跡
 藩政時代の城下に持ち込まれる商品から税を取る番所跡。読み方は『おすあいどころ』。東は原町、西は八幡町、南は河原町、北は堤町に置かれていたとされているが、場所がはっきりしているのは堤町のものだけだった。2001年まで建物が残っていたが、老朽化による危険で取り壊された。

御仲下改所跡

丁切根
 仙台城下の入り口に設けられた木戸。読み方は『ちょうぎんね』。城下の東西南北の端である、北は「堤町」、西は「八幡町」、東は「原町」、南は「河原町」に置かれていた。6時~18時(明け六ツ~暮れ六ツ)に開放されていた。徴税する「御仲下改所(おすあいどころ)」も近くに置かれていた。

丁切根

四ツ谷用水

 仙台城下にあった用水路。本流は郷六地区で広瀬川から取水され八幡町付近で開渠となり、宮町で梅田川に合流する。また覚性院丁、木町、通町の3カ所から南に支流が分岐して城下全体に水を供給していた。現在は本流のみが工業用水道として使用されていて、他は暗渠化か埋め立てられた。

四ツ谷用水

現代に残る仙台城下の痕跡

 城下町に由来する市街地では、町人地の間口が狭く奥に細長い土地区画、道幅、丁字路やクランクで交差点の多い道路、多すぎる町名と複雑な町の範囲など、現代の生活では不便な点も多い。旧仙台城下町も例外では無い。
 しかし、仙台駅西口一帯ではその特徴は薄れている。仙台空襲の被害を受けた西口一帯は戦災復興で複数の大通りが開通・拡幅されており、それ以降も、幹線道路だが昭和末期までクランク状に接続していた勾当台通や東二番丁が仙台市地下鉄の工事の際に滑らかに接続するように改良されたり、住居表示実施により複雑な町名が整理されるなど、ハードとソフトの両面で地道な努力が続けられてきている。
 一方、現在の仙台駅東口一帯や、かつての城下町周辺部および仙台駅南東方面の町人・足軽町は空襲の被害が少なく、土地区画、道筋(丁字路やクランク)が概ねそのまま残されている。例えば、荒町・南鍛冶町と三百人町の接続、穀町と南材木町の接続はクランク状になっている。また住居表示ついても歴史的な観点から実施されなかった場所も多数存在し、これらの町の境は道路と区画が概ね一致していない。城下町時代からの歴史が残っているわけだが上記のように現代の生活においては不便なことも多く、住民の合意に手間取って都市計画の遅れたり、複雑な道路事情から慢性的な交通渋滞に悩まされたりすることにもなった。

穀町と南材木町の接続

歴史的町名活用路線
 仙台市が仙台開府400年記念事業の一環で行った事業。仙台城下では道路をはさんだ両側で町が形成されていたが、町名の多くは1970年の住居表示で住所としては消滅または区域変更されているため、歴史的町名を活用した道路通称名を付けた。全部で77路線が選定されている。

おわりに

 痕跡が残っているのも善し悪しがあるなと思った。

更新履歴

2024年10月7日:記事を作成。

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