現代宮城風土記#44:仙台城の曲輪
仙台城
仙台藩主・伊達家の居城。雅称は「青葉城」。山上の「本丸」と、麓の「二の丸」と「三の丸」で構成される。一度も戦火を見ることなく廃城となり、明治期には陸軍用地となったため多くの建築物が解体され、残りも戦災でほぼ全て焼失した。一部の建造物は復元が計画されている。
本丸
仙台城の一部。西に「御裏林」、東に広瀬川、南に竜ノ口渓谷がある天然の要害を利用した山城になっている。天守台はあったが天守はなかった。絵図や文献の記録によると、本丸には大広間や御成門、東側の崖に面した懸造へ建物があったとされているが、明治初期に取り壊されたとされる。
御裏林
仙台城の後背地で藩の管理下に置かれていた森林。城の水源地であり、防衛上でも重要な場所であった。明治以降も森林全体に対して人手が加わることは極少なく自然林が残った。現在は大半が国の天然記念物「青葉山」かつ国指定史跡「仙台城」であり、東北大学植物園として公開されている。
竜ノ口渓谷
仙台城本丸の南側にある渓谷。約3万年前に広瀬川の蛇行によって小川の流路が奪われて生じた滝が、後方へと侵食することで形成された。仙台城本丸の南の防御も担っていた。周囲の地層から多くの化石を見つけることができるが、落石の危険があるため通常は入れなくなっている。
仙台城本丸大広間跡
「仙台城」の本丸御殿にあった建物。1610年に完成。その広さから『千畳敷』とも呼ばれた。部屋は全部で14で、藩主が座る上段の間、天皇家や将軍家を迎える上々段の間などがあった。部屋の周囲には広縁と落縁が二重に回っていた。現在は礎石を置いて柱の位置が表示されている。
仙台城本丸大広間障壁画鳳凰図
かつて「仙台城」にあった障壁画。作者は「狩野左京」。本丸大広間の上段の間を飾っていたもので、金地に2羽の鳳凰が描かれている。本丸解体時に屏風に仕立て直され、原本は松島町が所蔵。「仙台城見聞館」で実物大の復元が展示されている。宮城県指定の有形文化財。
仙台城・懸造
かつて仙台城本丸にあった建物。本丸東辺の崖に突き出た場所にあった数奇屋風書院造りの建物。若林区の「昌伝庵」に模型で再現されている。現状では文化財保護法の基準を満たしていないことから「仙台城跡」内での復元は出来ないため、史跡の整備計画では遺構表示にとどまる。
仙台城本丸詰門跡
「仙台城」の城門跡の1つ。本丸北側に設けられた2階建の門で、屋根は瓦葺き、棟の両端に鯱瓦が載せられていたと考えられる。門の両側(東西)には石垣が築かれ、三重の東脇櫓、西脇櫓があった。石垣の距離は大手門と同じ幅である。現在は門の礎石が2基だけが残されている。
仙台城本丸埋門跡
「仙台城」の城門跡の1つ。読み方は『うずみもん』。平屋建、瓦葺の門で本丸の南側に位置し、鉤型に屈曲した通路で門自体は西向きに建っていた。また南西端から「巽櫓跡」まで『大番士土手』が築かれていた。現在は「宮城縣護國神社」の駐車場への入口として利用されている。
仙台城本丸酉門跡
「仙台城」の城門跡の1つ。「本丸」の西側に位置することから、方角に十二支を当てはめて『とりもん』と呼ばれている。絵図では2階建の門と二重櫓があったとされ、門自体は南向きに建っていた。酉門跡内部は「宮城縣護國神社」の神域であることから通常非公開である。
仙台城本丸巽櫓跡
「仙台城」の櫓跡の1つ。「本丸」の南東側に位置することから、方角に十二支を当てはめて『たつみやぐら』と呼ばれている。絵図によると入母屋造、瓦葺の三重櫓で、北側に付櫓と見られる平屋建物があった。1646年の地震で被災居た跡は再建されなかったと考えられる。
仙台城本丸艮櫓跡
「仙台城」の櫓跡の1つ。「本丸」の北東側に位置することから、方角に十二支を当てはめて『うしとらやぐら』と呼ばれている。かつて復元計画があったが、現在の石垣の上には存在しなかったことや基礎工事によるⅠ期・Ⅱ期石垣破損の恐れ、国史跡への指定などを理由に断念された。
仙台城本丸北壁石垣
「仙台城本丸」の「本丸詰門」に向かって左側の石垣。石垣の東側は崖で、城下からも見える。発掘調査から3時期の石垣が重複していることが判明しており、現在見えているものは四角く加工された切石を使用した布積みのⅢ期石垣である。高さは最も高いところで17mある。
仙台城本丸北西石垣
「仙台城本丸」の「本丸詰門」に向かって右側から「酉門」までの石垣。北壁石垣とは異なり場所によって石材の形状や積み方に差異があり、切石積みの基部に野面積みの石垣があることから元は全体が野面積みで、後の地震被害等でその都度部分的に修理されてきたと考えられる。
仙台城本丸北壁石垣の変遷
・Ⅰ期:北東部と西部の盛土の下で発見。築城期のもので1616年の地震で被災したと考えられる。傾斜は約48度。
・Ⅱ期:北壁石垣の東部で発見。1668年の地震で被災したと考えられる。傾斜は約60度。
・Ⅲ期:現在の石垣。Ⅱ期石垣の修復して築かれたと考えられる。
三滝玄武岩
仙台市青葉区荒巻字三居沢付近で産出する岩石。およそ800万年前に「権現森」および「蕃山」付近から流出した溶岩が固まったもの。昭和30年代までは現在の国見・八幡地区に石切り場があり、古くは「仙台城」の石垣や「亀岡八幡宮」の石段などに石材として利用されていた。
本丸跡の現用途
史跡として整備されている場所以外に、以下のような施設が立地している。
宮城縣護國神社
仙台市青葉区川内の「仙台城本丸跡」にある神社。1904年に『招魂社』として創建。明治維新以降の宮城県を中心とした地域出身の戦没者を祀る。仙台空襲で社殿を焼失し、現在の本殿は伊勢神宮の外宮『風宮』の旧正殿を移築したもの。尚、仙台城跡にあるが伊達家を祀るわけではない。
別宮 浦安宮
「宮城縣護國神社」の境内社。いずれも1967年に創建された。左宮は宮城縣護國神社が伊勢神宮外宮・風宮の旧正殿を本殿として戦災から再興したことが発端となって、伊勢神宮の四座を祀ったもの。右宮は藩祖・伊達政宗と仙台城築城以前に当地で祀られていた白水稲荷大社を祀ったもの。
昭忠碑
「仙台城本丸跡」にある慰霊塔。1902年に「第二師団」の戦没者を慰霊するために建立された。高さ約15mの石塔と、高さ4.44m、幅5.68mのブロンズ製の鵄で構成される。元々鵄は石塔の上にあったが、東日本大震災でブロンズ部分が落下・破損したため、現在は石塔の前に設置されている。
伊達政宗公騎馬像
「仙台城本丸跡」に設置されている伊達政宗の騎馬像。現在のものは2代目で、初代のものは1935年に設置されたが戦時下の金属供出で撤去され、戦後に再鋳造された。2022年3月の地震で破損したため、修理のために9か月間不在だった。ほとんどの観光客はこの像の写真を撮る。
伊達政宗公胸像
「仙臺緑彩館」に設置されている伊達政宗の胸像。作者は小室達。1935年に政宗の300回忌に合わせて「仙台城本丸跡」に設置された騎馬像の一部で、戦時下の金属供出で撤去されたが胸から上の部分のみが残った。後に「仙台市博物館」の庭に設置されたが、2023年に現在地に移設された。
青葉城本丸会館
「仙台城本丸」にある観光施設。伊達家や仙台藩に関する資料の展示やCGシアターがある『青葉城展示資料館』や、土産物の販売店、仙台名物などを提供しているフードコートなどが入居している。また「宮城縣護國神社」での神前式や披露宴に対応する会場がある。
仙台城見聞館
仙台城本丸跡にあるガイダンス施設。2006年に開館し、2015年にリニューアルオープンした。仙台藩の儀式や政務を執り行った本丸・大広間の復元模型(50分の1)や、藩主が座った上段の間の床の一部を原寸大で再現した展示がある。隣に本丸北壁の石垣のモデルも展示されている。
二の丸
仙台城の一部。仙台藩2代藩主伊達忠宗によって本丸よりも一段低い土地に造営され、藩の実務を執り行う建物や藩主の居所がある藩政の中心であった。明治以降は軍用地となり、戦後は駐留軍のキャンプを経て東北大学川内キャンパスになっている。藩政期の建物は明治期の火災で焼失。
扇坂
仙台市青葉区川内にある坂。「仙台七坂」の1つ。かつては仙台藩士が「仙台城二の丸」に登城するルートとして利用されていたが、明治以降に「第二師団」が設置されて消滅していた。現在は東北大学川内南キャンパスと国際センター前の道に向かうルートとして、階段が整備されている。
第二師団
大日本帝国陸軍の師団の1つ。1871年に東北鎮台として設置、1873年に仙台鎮台、1888年に第二師団になった。司令部は川内の旧仙台城二の丸に、射撃場は台原(現・台原小学校付近)に設置された。戦後、旧司令部は1957年まで進駐軍の駐屯地で、その後東北大学川内キャンパスとなった。
キャンプ・センダイ
かつて仙台市川内にあった進駐軍の兵営地。1945年に大日本帝国陸軍・第二師団の衛戍地を接収して設立された。1957年に返還された土地を東北大学が取得し、川内キャンパスとなった。米軍の社交クラブ等があった影響でジャズが広まり、現在のイベントに繋がっている。
千貫沢
東北大学川内キャンパス内を通る小川。かつて「仙台城二の丸」の北の端を通って広瀬川に流入していた小川で、土橋の『千貫橋』によって北方の武家屋敷と渡されていた。現在も土橋の東側に築かれた当時の石垣や江戸時代からの木々が残っており、沢に沿って遊歩道が整備されている。
三の丸
仙台城の一部。本丸、二の丸よりも低い土地にあり、水堀(長沼・五色沼)と土塁に囲まれた曲輪になっている。城下の絵図には『蔵屋敷』『東丸』と記載されており、年貢米などを貯蔵する蔵が置かれていたと考えられる。明治以降は陸軍用地、現在は「仙台市博物館」の敷地となっている。
仙台城子門跡
「仙台城」の城門跡の1つ。「三の丸」の北側に位置することから、方角に十二支を当てはめて『ねのもん』と呼ばれている。かつては木造2階建て、瓦葺の門が立っていたとされる。左右に石垣が残っているが、昭和期に修理されたもの。現在は「仙台市博物館」への出入口となっている。
仙台城巽門跡
「仙台城」の城門跡の1つ。「三の丸」の南東側に位置することから、方角に十二支を当てはめて『たつみもん』と呼ばれている。廃城後も残っていたが、仙台空襲で焼失した。1984年に発掘調査で礎石や雨落溝などが発見され、遺構表示されている。沢門までの登城ルートが整備されている。
仙台城三の丸東側土塁
「仙台城」の遺構の1つ。天然の要害で囲まれていた本丸とは異なり、三の丸は水堀と土塁で囲まれていた。「仙台市博物館」の建設の整地で見た目は低くなっているが、江戸時代には高さが約3.6m、また巽門付近では約9.0m、子門付近では約13.5mに達していたとされる。
長沼
かつて仙台城三の丸の東側の堀だった沼。南北に約250メートルで、三の丸側には土塁が築かれていた。南端には巽門跡があり、大手門から本丸まで上るルートとは別の登城ルートになっている。土塁には木々が繁茂している。宮城県北部の登米市にも「長沼」という名称の湖沼がある。
仙台城三の丸巽門東堀跡
「仙台城」の遺構の1つ。「三の丸」の南東部、「長沼」の南側にあった堀で、南北幅が35~40m以上、深さが現地表面より6m以上あったことが確認されている。現在は埋没している。発掘調査の結果から幕末まで機能し、明治以降に徐々に埋没したと考えられる。
五色沼
仙台城三の丸の北面から大手門隅櫓の前にかけて広がる堀の一部。仙台城の廃城後に庶民が出入りするようになり、明治以降アイススケートで賑わった。日本フィギュアスケート発祥の地とされているが、戦後は人が安全に乗れるような厚い氷が張らなくなったため、スケートはできなくなった。
三の丸跡の現用途:仙台市博物館
仙台市青葉区川内にある市立の博物館。1961年に仙台城三の丸跡地に開館。国宝の「慶長遣欧使節関係資料」や、伊達政宗所用で重要文化財の「黒漆五枚胴具足」、伊達家からの寄贈資料など、江戸時代を中心とした仙台藩に関わる歴史・文化・美術工芸資料を約10万点収蔵している。
おわりに
規模の割に曲輪はシンプルかも。
更新履歴
2024年10月9日:記事を作成。