どろどろした気持ちを抱くわたしを、いつか、わたしは愛おしく思えるだろうか
いつもと違う話を書いてしまった。
投稿するかどうかもとても迷ったけれど、書いたということはたぶん誰かに聞いて欲しくて、そして忘れたくないんだろうなと思ったので、夜中のテンションで押し切ることにした。
曖昧にしか書けなかったのは、きっとこれが、見栄っ張りなわたしがさらけ出せる今の限界だからだ。
人の不幸は蜜の味、とは言うけれど。
自分より幸せな人を見ると不安になって、自分より不幸な人を見ると安心してしまう私わたしがいる。
そんな自分があまりにも情けなくて、わたしは、わたしという人間が苦手だ。
自分で言うのもなんだけれど、わたしは外から見ると何でもうまくいっている部類の人間だと思う。
学校の勉強にはあまり苦労したことがないし、運動も、進学も、就職も、それらを取り巻く人間関係も、一流とは言えなくてもそれなりに上手くいって、誰かの参考にしてもらえるほどパンチのある教訓エピソードもない。
絵に描いたような、真面目でしっかりしているいい子。それが自分の立ち位置だと気づいたのは、まだ幼い、と言ってもいいような歳の頃だったように思う。
そして、真面目でいい子なわたしは、そうあらねばならないと、そうとも知らないうちに自分に呪いをかけ続けてきた。
真面目でいなくてはならない。
成績を落としてはならない。
できないことがあってはならない。
誰かにできることはわたしにもできなくてはならない。
失敗してはならない。
でないと、がっかりさせてしまうから。
そんな呪いはわたしの持って生まれた性格をほんの少し歪ませて、いつしか「望月さんは何でもできて羨ましい。」と誰かに言ってもらうことが快感になって、「そんなことないよ。」と口先だけでのたまう。
わたしにはできることが当然で、誰かに格好悪いところを見せたり、可哀想などと同情されることをずっと避け続けてきた。
できる人でいつづけるためには常に自分と誰かと比較し続けなくてはいけない。
だって、誰かはできるのにわたしにできないのはゆるされないから。
だれかがしあわせそうにしていたら、わたしもおなじくらいしあわせでいなくちゃいけないから。
じゃないとがっかりされちゃうから。
そのことに、くるしいな、と思うようになったのはいつからだっただろうか。
しあわせのカタチ
それでも学生の頃はよかった。
比較される時間が決まっていたから。
受験が終わるまで。就職が決まるまで。
数字で評価される世界は、努力もしやすい。
求められる『しあわせのカタチ』は、わたしの目にもよく見えた。
けれども、社会人という大人になって、今度は、結婚、とか、出産という『しあわせのカタチ』が現れた。
わたしたちはすぐにお年頃と呼ばれる時期に足を踏み入れ、友人たちはどんどんその『しあわせのカタチ』にはまっていった。
この『しあわせのカタチ』の厄介なところは、わたしの努力ではどうしようもないというところだと思う。
これまではわたしの努力だけが試されていたし、その過程を評価してもらえることもあった。
けれども今回はそういうわけにはいかない。
相手のことも、タイミングも、気持ちも、数字では表すことができない要素が必要で、わたしは完全に努力の方法を見失った。
それなのに、年齢という評価指標は明確に決まっている。
社会人になってすぐの頃、わたしにはお付き合いしている相手がいた。
わたしは、彼のことが本当に大好きで、大切で、いつか家族になりたいと本気で思っていて、彼の方もそう思ってくれているとずっと信じていた。
3年と半年経った頃、家族にはなれない。と、そう彼に告げられた。
あまりにショックで、泣くこともできなかったのをよく覚えている。
あれがわたしにとって初めての大きな挫折で失敗だったから。
あの日、彼が口を開くまで、結婚しようと、そう言われるとわたしは信じていたんだもの。
両親にもお付き合いしていると紹介してしまっていたから、母を泣かせてしまった。
父は何も言わなかったが、いろいろ思うところはあったと思う。
何より、家族になりたいとまで信頼していた彼に、「お前はもう要らない。」と、「選ぶほどの価値はない。」と、そう言われたような気がして、わたしはわたしの全てに価値がなくなったように思えて、あまりに情けなくて、彼と家族になるんだと疑いもせず、新しいしあわせのカタチを手に入れるのだと信じていた自分のうぬぼれ加減にうんざりした。
どろどろの気持ち
そのあとすぐ。追い討ちをかけるように友人たちからおめでたい報告が立て続けにあった。
なんで彼女たちに普通にできることが私にはできなかったんだろう。
わたしがしあわせのカタチにはまり損ねたという現実をこれでもかと突きつけられた。
おめでとう!末永くお幸せにね!!
おめでとう!生まれるのが本当に楽しみ!!
彼女たちに返した返事は本当の気持ち。
けれども、「聞きたくなかった」というのも、本当の気持ち。
知らなければ、こんなに気持ちがざらつくことはなかった。浅ましいわたしを知ることはなかった。
おめでとうって。
お祝いいつしようかって。
いろいろ話聞かせてよって。
笑って、心から言いたいのよ。
また置いてかれたって。
なんでわたしには同じことが許されないんだろうって。
知らない方が心穏やかだったって。
そんなこと思いたくないの。
そんな悲劇のヒロインになった自分に酔うみたいなこと、したくないの。
でも、報告がLINEでよかった。
文字だったら心から喜んでるように見せられるから。
ちゃんとできてたでしょう?
ごめんね。
こんな不出来な友人でごめん。
しあわせの真っ只中のあなたと一緒に喜んであげられなくて本当にごめん。
比較しないで、芯を持って、自分らしく生きていけたなら。
なんにも考えずに、彼女たちに心の底から、ただ、おめでとう!と言えたなら。
わたしはわたしのことをこんなに嫌いにならなくて済んだかもしれない。
正解と不正解
わたしは、結婚や出産に関する個人の選択のどれもを否定するつもりはまったくない。
結婚することも、おひとりさまを満喫することも。
子どもをもうけることも、2人暮らしを楽しむことも。
異性が好きなことも、同性が好きなことも、または誰も好きにならないことも。
最後のは、初めて聞いたときにはちょっとびっくりするかもしれないけれども、それでも、どんな選択肢を選んだとしても、正解でも、不正解でもないと本気で思っている。
それにもしかしたら、そもそも選択肢もなくて、自由記述式なのかもしれない、とも。
それなのに、自分のことになると急に正解があるように思えてくる。
早くちゃんとしなくちゃ。
みんなと同じように。
恥ずかしくないように。
がっかりされないように。
だから、やっぱり自分と誰かを比較して、誰かがわたしの持っていないしあわせのカタチを手にしていたら不安になるし、わたしの持っているしあわせのカタチをまだ手にしていない人がいたら安心する。
そして、わたしの持っているしあわせのカタチを見て、それはわたしには必要ないものなの。と肩の力を抜いて言える人を心から羨ましいと思う。
いつかそんな日が来たら
この呪いはまだまだ解けそうにない。
嫌いな自分と向きあい続けて、嫌いになりきったら。
いつか、肩の力を抜いて、わたしはしあわせよ。と言える日がくるだろうか。
いつか、呪いが解けて、こんな風に悩んだ日々を愛おしく思える日がくるだろうか。