彩を希う
「おしまいにしようか。」
話があるから時間をくれないかと連絡があったのは昨日の夜のことだった。
いい話ではないとどこかで予感しながらも断る理由も見つけられず、じゃあ明日お昼ご飯でも一緒にどうかと返事を出した僕に、彼女は普段と何も変わりなく、じゃあそれでよろしくねと返事を寄越した。
そして今日、何度も一緒に夜を過ごした僕の家に、いつものようにやって来て、いつものように優しく微笑む彼女は、僕の目にはなぜか知らない人のように映っている。
彼女が食後に慣れた手つきで二人分淹れてくれたコーヒーを啜りながら気負いなくそう言っても、僕は呆然としたまま彼女を見つめることしかできなかった。
僕たちは見つめあったまま、永遠とも思える時間、おそらく実際にはほんの数分を過ごし、彼女はおもむろに目の前に置かれたマグカップを手に取り、ぐいと中身を飲み干して立ち上がった。
彼女のものと対のマグカップは僕の目の前に置かれていて、冷めきったコーヒーの中で電灯の白が揺らめいている。
彼女はいつものようにキッチンで使ったマグカップを洗って水切り籠に伏せると、僕のそばにしゃがみ、何も言えないままの僕に顔を寄せてひとつ口づけを落とした。
これは僕たちのバイバイの合図。
その自然な仕草は、これまでのそれのように明日以降も続く常を感じさせたけれど、今日のそれはそうではないことも、僕は瞬きしかできないまま、それでもなぜか冷静に感じ取っていた。
かつて、彼女と僕はただの知人だった。
僕が当時お付き合いしていた女性の友人で、何度か食事に同席したことがあるだけの、ただそれだけの関係。
だというのに何が琴線に触れたのか、彼女が僕に好意を寄せてくれるまで、そして僕がそれに気が付くまでにはさほど時間はかからず、けれども、友人想いの彼女は僕に対して何かを望むこともなく、その気持ちを完璧に隠し通し、僕は僕で気づかぬふりをして、僕の大切な人は永遠にそれを知らないままだ。
僕たちはただの知人で、そして秘密を共有する仲でもあった。
「私を利用してください。」
もう会えなくなった想い人に最後のお別れを告げた日、彼女からの申し出を躊躇しつつも断り切れなかったのは喪失感に耐えられなかったからだ。
僕と彼女は大事な人を喪った同士だった。
彼女と僕は恋人として、そして同じ喪失感を抱える者として、傷を舐め合いながら、幾つもの夜を過ごしてきた。
彼女と僕の関係は穏やかで喧嘩もなく、敬語はいつしか取れ、呼び名は下の名前に変わった。
遊園地や映画館、ちょっといいレストランなど、いわばデートスポットにも出かけたし、一方でお互いの家で彼女が作る食事をとりながら他愛もない会話を楽しんだりもした。
何も知らない誰かから見た僕たちは幸せなカップルで、もしかしたらいつか家族になる未来があったのかもしれない。
けれども、僕たちはそうはならないだろうと気がついていた。
幸せでなかったわけではない。
けれども、いつもどこかに後ろめたさが付きまとった。
僕は彼女が一番になれる日を待っているのを知っていて、彼女は彼女でその日が来ないことを知っていた。
そして、僕たちの心には今も喪ったあの人が屈託のない笑顔で佇んでいる。
あの喪失感を忘れられなくとも僕たちの生は何も変わらず今日まで続いてきたし、これからも続いていく。
傷はなくならずとも、すでに癒えてしまった。
一緒に居続けなければならない理由は、もうない。
理由はこのままでは僕がダメになってしまうという憐憫だったかもしれないし、自分が先かもしれないという保身だったかもしれないし、あるいは二人ともという危機感だったかもしれない。
僕たちがずっと目をそらし続けてきたことに、彼女は先に正面から向き合い、そして結論を出した。
始まりは彼女からだった。
だからせめて終わりは僕から告げるべきだった。
後悔が胸によぎる。
どうして嘘でも彼女が一番だと言ってやらなかったんだろう。
そう考えてすぐに、僕は僕の思考を否定する。
それは僕のための嘘だ。
彼女を繋ぎとめておきたいがゆえの。
彼女にはすぐに嘘だと見抜かれて、それを口に出したその瞬間に僕はすべてを失っていただろう。
僕たちの関係は決して満ち足りたものではなかったけれど、それでも僕たちには確かに時間が必要だった。
僕を振り返ることなく出ていった彼女を追いかけることもできずに、立ち上がることすらもできずに、彼女が気合を入れる日に履くのだという10センチのヒールの音が遠ざかっていくのをただ聞く。
玄関の扉を開く彼女の背中はその意志を表すようにぴんと張られていた。
それでもそこに精一杯の強がりがあったことも、彼女が一方的に押し付けた別れ際のくちびるが少し震えていたことも僕にはちゃんと分かっていた。
しばらくたってからやっと動くようになった足を引きずり、窓越しに外を見る。
彼女の背中は疾うに見えなくなっていた。
空はオレンジになる時刻になっていたけれど、いつの間にか雨が降り始めたらしく薄暗い。
今日は雨の予報ではなかったはずだったのに。
空のグレーを映すように色を濃くしていくアスファルトを見つめる。
彼女の好意と善意と良心をむさぼった僕にその権利はないと知りながらも、僕にできることはただ、彼女が幸せであることを祈ることだけだった。
雨に滲んだ涙のその先が彩りに満ちていることを希うだけだった。
こちらは、次の企画に参加させていただくものです。