奇跡のような出会いに感謝して~日本講演新聞
日本講演新聞は全国の講演会を取材した中から、為になることや心温まるお話を講師の許可をいただいて活字にし、感動と元気を勇気と希望を提供する全国紙です。
目が覚めたら生きていた。
朝起きたらもうご飯ができていた。
窓を開けたら美味しい空気があった。
毎日ご飯が食べられる。
買い物に行ったら欲しいものが買えた。
美味しいものを食べて美味しいと感じる。
結婚して子どもが生まれた。
子どもがすくすく育っている。……
「こんなこと、当たり前だと思ったら大間違いです。世の中に当たり前のことはたった一つしかないんです。それは、産まれてきたすべての命には必ず終わりがあるということ。それだけが当たり前のことで、それ以外のことはすべて奇跡なんですよ」
助産師の内田美智子さんがこう話していた。内田さんといえば、一昨年、この社説でも紹介した『いのちをいただく』の著者。毎日牛を殺して肉にする仕事をしている坂本さんと、畜産農家で「みいちゃん」という牛と一緒に育った女の子の話を綴った感動的な絵本だ。
この年末から年始にかけて、内田さんは連日新しい生命を取り上げた。その中には15歳の少女もいた。
分娩室で彼女は「痛い、痛い!」と泣き叫びながら、やっとのことで3000㌘を超える大きな赤ちゃんを産んだ。
妊娠に至った経緯には、言うに言えない事情があった。しかし、産まれたばかりの赤ちゃんを抱きながら、少女は「ママよ、私がママよ」と何度も語りかけていたそうだ。
しばらくして、ずっと寄り添っていた、30代後半だろうか、40代前半だろうか、若くして祖母になったばかりの母親に向かって言った。「ママ、ありがとう」
同じ頃、国会議員の野田聖子さんが不妊治療の末、50歳にして男の子を出産した。
「50歳だろうが15歳だろうが、生まれてきた子は乳飲み子。手がかかるのは同じ。周囲のサポートは同じように必要です。中学生だろうが、国会議員だろうが、母親は一人しかいないんです。育てられることに感謝して欲しい」と内田さんは言う。
30年以上もお産の現場にいる。そこは「おめでた」ばかりではなかった。
妊娠が分かってから女性は約10ヵ月の月日を経ながら、少しずつ「母親になる」という決意をしていく。それは自分の命を賭けて産むという決意だ。
わずか50年前、約2000人の母親がお産のときに命を落としていた。内田さんが助産師になった30年前は300人、一昨年でも35人の母親が自らの命と引き換えに子どもを産んだ。
死産もある。ある妊婦は10ヵ月目に入って胎動がしなくなったことに気が付いた。診察の結果、胎児は亡くなっていた。でも、産まなければならない。
普通、お産のとき、「頑張って。もうすぐ元気な赤ちゃんに会えるからね」と、妊婦を励ますが、死産のときには掛ける言葉がないという。泣かない子の代わりに母親の泣き声が分娩室に響き渡る。
その母親は内田さんに「一晩だけこの子を抱いて寝たい」と言った。真夜中、看護師が病室を見回ると、母親はベッドに座って子どもを抱いていた。
「大丈夫ですか?」と声を掛けた看護師に、母親は「今、お乳をあげていたんですよ」と言った。
見ると、母親は乳首から滲み出てくる乳を指に付けて、子どもの口元に移していた。
「このおっぱいをどんなにか、この子に飲ませたかったことか。泣かない子でも、その子の母親でありたいと思うのが母親なんです。何千年の時を経ても母親は母親であり続けるんです」と内田さん。
父親・母親世代に内田さんは、「子育ては時間が取られるなんて思わないで。育てられるだけでも幸せなことなのよ」と語り、学校に呼ばれたときには、「お母さんは命賭けであなたたちを産んだの。だからいじめないで。死なないで」と子どもたちに訴える。「命が大切なんじゃない。あなたが大切なの」と。
(日本講演新聞 2011年1月17日号 魂の編集長・水谷もりひと社説より)