私自身が欲望の襲来に悩み(自身が欲望に塗れるのではなく、欲望の侵入により吐き気に襲われる悩み)、人間の欲望の根源と訪れ方その在り方などを手探りで模索し確立した内容と同じ研究を仏教がしていた。仏教のこの辺りが私と通じるところでもある。
第七部 ロンチェンパの遺産
24 サンワ・ニンポ
全ての欲は、真如(ほんとうの自分)に蓋をする。
真如(潜在的自分)が見えなくなってしまう。
顕在意識(現在の自分)にある、欲を滅すると、潜在的自分(過去の自分)にも欲があることがわかる。これも自我のうちだが、過去の自分も自分として、その欲望(輪廻の因果)を滅することにより、輪廻を切断したニルヴァーナとなる。
まだ、潜在意識に欲があるという文書を見たことがない。顕在意識の欲と感情(ここでいう「生滅」という時間のあるもの)を消去したときに、潜在意識にも欲があると気付いた。
私は自他を分けることはしないが、
自他の持つ欲は分別の対象となる。
またここに、真如心を浮かび上がらせる心の構造変容が必要で、それには「瞑想」が重要とあるが、正しい瞑想を行わなければ意味はない。
ありのままの自分を見つめて、その正しさを自分で問い、その在り方を考え、正していかなければ、真如は一生浮かばれない。
五種類の原初的知性
①リクパの中心部から真っ直ぐに放出される原初的知性、ここではまだ潜在状態。あらゆる可能性に向かって開かれる。
②この可能性が、四つのスペクトルに分解して四方に広がっていく。知性自体が自分を見て自分を知る。自分とは異なるが同一でもあるという二次的な反射像を自分の前に発見する。
③有情の知性に「経験」が開始される。「自同性」「同一性」の認識《ある》。
④《ある》という同一なるのもは無限に異なる相貌をもって現象してくる「差異性の認識」。有情には世界のマッピングが可能になる。これを通して望ましい領域を選択することが出来る。
⑤法身に内蔵されている完全な意味情報を実現に向かわせるには志向的な構造が必要。(全体性への配慮、強い利他性)
情動、感情とは、真如心に被さったもの「生滅」による対称性の破れ。対称性を失ったことにより、①〜⑤の情動が発生する。
ゾクチェンでは、心とは何かを知り抜くことによって、はじめて人は心(セム)から真の解放に至ると考えた。
前回取り上げたように、「なにも拒否せずなにも受け入れず、まわりに出現するもののすべてをありのままに楽しんで生きる」ことの重要さが説かれている。
欲の襲来はどうしたら良いのか。それでも拒否できるときとそうでないとき、受け入れずに済む場合もあり、極力意識を繋げないよう心がけています。
ここで、知性が変容するということがわかり、情動とは真如が生滅に変容した姿ということを初めて知りました。
これまで、わからなかった、知らずにいた人間の理や構造が理解できると面白いです。