果物のある暮らし
アメリカ大統領選も終わってみれば、激戦7州全てで勝利をおさめたトランプ氏の圧勝。そのうえ、上院も共和党が過半数を獲得して、下院も過半数を獲得しそうな気配。こんなニュースをネットで見ると、トランプ氏がどうこうの前に、単純にアメリカ国民も生活が苦しくて、今の政権にウンザリしているのだろう、日本もアメリカも同じだな…と思った。
今は、お金と引き換えに驚くほど様々なサービスや商品があって、お金が有れば何とでもなる世の中だけど、お金が無ければどうにもならない世の中だから、老若男女みんなが必死に働いている。そして、働き疲れて日々の暮らしが疎かになっている気がする。共働きが当たり前の時代となり、仕事と家事の両立は大変。そして、仕事では手を抜けないから、手を抜くところはどうしても家事になってしまう。
なかでも手間を省きがちなのが夕食の支度。冬場はホウレン草のお浸しを食卓に出したいけれど、お湯を沸かしてほうれん草を茹で、水にさらす一連の作業が面倒で袋売りのサラダにしてしまうこともある。肉じゃがを副菜にして主菜に焼き魚を…と思っても、ジャガイモ、玉ねぎ、人参、肉と同じ材料を使うなら、1品で夕食になるカレーを選んでしまう。
朝食でも同じようなことがある。ここ数年『朝食に果物を添えたい。』と思うようになって、出来るだけ旬の果物を出すように心がけている。秋口は梨や例年より安く出回っていたシャインマスカット、最近は柿を出していて、そろそろ林檎の時期になってきた。
果物の皮を剥き、切り分けて出すなんて些細なことだけれど、コレが忙しい朝にはハードルが高い。どうしても時間が無くてあきらめてしまいそうになる。そんな時はいつも『資本主義社会に負けないぞっ!』と意地でも梨や柿の皮を剥いて朝食のプレートに加える。大袈裟に聞こえるかもしれないけれど、至って素直な気持ち。50歳を過ぎて、仕事に追立てられて暮らしの彩を削りながら過ごすのは惜しいと思うようになったのだと思う。
不景気で物価高のなか果物も贅沢品の仲間入りをしてしまったけれど、私の暮らしの中では必需品。果物は季節からの贈り物だと思うので、受け取らないのは勿体ない。それに『旬の果物を口にしてから出掛けた1日と、そうでない1日は違う』と思えるほどに、季節や果物を信頼している。果物は味も姿も個性を隠すことなく、そのままで完璧で、こちらも何も手を加えずその個性をそのままに頂けるなんて凄いと思う。しかも、季節を合図に旬には個性を最大限に発揮して食卓に登場してくれる。私は、そんな逞しい果物からいつも元気を貰っている。
なんの根拠も無いけれど、人の暮らしにはこんな曖昧な事柄が散らばっていて、タイパ、コスパなんかで済ますことなんて出来ないと思う。資本主義社会と人の暮らしって相性悪いよなぁ…。