そろり、そろりの京都旅
紅葉前だけれど、母と娘を連れての京都旅行。50歳を過ぎて、こうして3人で旅に出られるのは本当に有難い。母は喜寿を迎え、80代が目の前となった。大人になってから母とは旅行らしい旅行もしたことが無かったので、今回が最初で最後かな…と思ってしまう。
折角だからと、あれこれ見たい、行きたい、食べたいと欲張ってプランを立てたけれどフト気が付いた。母の心許なさを。膝も硬そうだし、歩幅も狭く、歩くペースもゆっくり。肩や背中も丸くなったし、身体も昔と比べて随分とコンパクトになっている。頻繁に会うこともないので、母のイメージは60代あたりで止まっていたけれど間違いなくお婆さんになっている。呑気な娘だった…と反省してプランを練り直し、一カ所、一カ所をそろりそろりとまわる京都旅。
土産物屋で娘がオモチャのような900円のブレスレットを母に買って貰っていた。口にはしなかったけれど『京都にまで来てこんなの買う?』というようなものを欲しがるお年頃。おばあちゃんに買って貰う喜びと、孫に買ってあげられる喜びを眺める喜び。
母と私の2人だけだったら、しんみりした雰囲気にもなりそうなところを、娘の高校生特有の毒っ気に助けられる。
母の荷物を持ち、歩調を合わせ、休憩をこまめにとって「段差があるから足元に気をつけて」「手摺りを使って」「車がきてるから注意して」と何時声を掛けただろう。
若い頃は、こんな旅をするときが来るなんて思いもしなかった。そして、早々と亡くなった義母や長患いの末に亡くなった実父の晩年を思うと、この有り難さが身に沁みて分かる年頃になってしまった。
永観堂で『有難い。よほどのご縁があって今がある。』の言葉が廊下の壁に掛かっていた。辛く苦しい事を乗り越えてきた人は勿論、平凡で何事もなく過ごしてきた人こそ、この言葉が当てはまる気がしている。難無く過ごすことの難しさと有り難さ。日々の暮らしのなかで自分の頑張りだけではどうにもならないことがある。ホントよほどのご縁があって今の自分があるんだな…と、旅の最中に何だか神妙な気分にもなって『コレもご縁ですよね。』なんて思ったりした。