今の私
「真面目」
これは私を知っている人から、私という人間を表現するときにかなりの確率で言われる言葉だ。
声を大にして言いたい。
私は真面目ではない。
小学校の時の夏休み。後回しにしていた宿題は、決まって最終週まで溜め込んだ。
夏休みの記録の天気蘭は全て当てずっぽう。
2ページ分の絵日記の1ページを、絵で、しかもデカいボールを一つ書いてうめた。
朝顔は1、2度観察したらその後は放置。当然枯れた。
忘れ物はしょっちゅう。
ランドセルの底には、提出期限の過ぎた家庭訪問の希望日を書くプリントが丸まっていた。
中学の提出ノート(毎日提出する宿題のようなもの)は出さずに逃げた。
授業中、分かるうちは聞いているが、分からなくなり始めるとすぐ諦め、友達にどうでもいい手紙を書いてやり過ごした。
というか、部活以外何をしていたか、全く記憶がない。
唯一覚えているのは、家庭科の授業で全校で1番キャベツの千切りが上手いと褒められたことくらい。
あとは思春期特有の、恋のあれこれとか?
高校は中学から始めたバレーボールを続けるために県内のちょっと強い高校に進学した。考えが甘かった。
やれ全国だ、やれ春高だ、
そんなたいそうな目標、急に目の前に突きつけられても全く現実感を持てるはずもなく。
はたからみた私は非常に頑張って見えたかもしれない。
しかし内心は
「全国なんて本気か?強豪校の努力レベルをみんな舐めてるのか?」
と1人、疑問を抱きながら、チームメイトの「全国行こうね!」の言葉に、ただただ笑顔で力強く頷くことしかできなかった。
結果、最後の大会の最も重要な場面で、大ミスをおかした。
相手が強過ぎ大差で負けた試合ではあったが、大泣きするチームメイトの隣で涙は出なかった。
虚無の高校時代をやり過ごし、看護専門学校へ進学。
本当は東京の音楽関係の専門学校に行きたかった。
しかし、上京はお金がかかる。最初から諦めていた。
ならば県内の短大は?とオープンキャンパスへ。
つまらな過ぎて、何を聞いたか全く覚えていない。
進路を決める最終面談の前日。
「私看護師になる」
そう伝えた時の両親の安心した表情は今でもはっきり覚えている。
その表情を見て、よかったと私も自分の選択に納得をした。
看護学生時代は、自分でも「真面目」に頑張ったと認めている。
授業は眠気に勝てず、終業の鐘で目がさめることは何度かあった。
しかし、実習は違う。とにかく必死だった。相手は命だ。真剣に向き合わない理由はなかった。嫌で嫌で、朝から涙が止まらない日もあったけど、重たい体を引きづりながら、休まず病棟へ向かっていた。
あんなに文字を書いたのも読んだのも、後にも先にもあの時以外ないだろう。
必死で乗り越えた3年間。
国家試験に無事合格し、晴れて看護師に。
「さあ、ここから私の新たな人生がスタートするぞ」
と意気込んだ2年後。
私は看護師を辞めた。
ここには書ききれないような出来事が複雑に絡み合い、私は何もできなくなった。
夫とは専門学生時代に出会い、看護師1年目に結婚。
私生活は非常に充実していた。
仕事も特に大きな問題はなかったはずだ。
でも、続かなかった。
命と向き合うことは、私にとって並大抵のことではなかったのだ。
それから13年。
私は今、小さな食堂カフェを営んでいる。
私は「真面目」ではない。
サボるし、怠けるし、逃げるし、後回しにするし。
小学校の時のランドセルの底でグチャグチャになっていた、親に渡すはずのプリントが全てを物語っている。
しかしある時、看護師を辞めて悩む私に、母はこう言った。
「あんたは、一生懸命生きてきたんだと思う。」
小学生の時、計画的に宿題はできないし、提出物も忘れまくった。
でも、いじめっ子に正面からぶつかっていくことを恐れたことは一度もなかった。
中学の時、勉強はできなかった。
けど、先輩(男子)が体育館で死んでしまっていた鳥を見て「気持ち悪い!」とモップでたらい回しにしているさまにブチギレ、泣きながら鳥の亡骸を埋めた。
「ごめんなさい」と半笑いで謝ってきた先輩に
「謝るなら、この鳥に謝れ!」
とさらにブチギレる度胸はあった。
先輩の顔は引き攣っていた。
高校の時、全国なんて本気で目指せないような、万年ベンチの下手くそ部員だった。
でも、高校入学式前の春休み、電車で1時間、歩いて30分かけて、参加できる練習日の全てに参加した。とにかくバレーが好きで、バレーがやりたくて。その気持ちだけだった。蓋を開けてみたら、全ての練習に参加していた新入生は、1番遠くから入学した私1人だけだった。
看護師を辞めた時、私はひどく落ち込んだ。
なぜ普通に続けることができないのか。
なぜこんなに面倒くさい性格をしているのか。
看護は好きだけど、嫌いになりそうな自分が怖くて、弱くて、嫌気がさした。
生きていればいろんなことがある。
逃げるもOK。
サボりも上等だ。
でも、自分にとっての「譲れない」はしっかり握りしめていたいと思う。
まだお店を始める前。
いつか自分の店を持ちたいと考えカフェに勤めた帰り道。
西日がすごく眩しくて、車のスピーカーから流れてくるharuka nakamuraが苦しくて。この曲を、温かい気持ちで聞けるようになりたい。そう思った。
そして今、賑わいが過ぎ去った、haruka nakamuraが流れる西日差し込む店内をカウンターの中から見つめ思う。
「一生懸命生きてきて、本当によかった」
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