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愛情コミュニケーション①

生まれ

 「愛情とは提供した分だけ享受されるものではない。」もしも過去に戻ることができるのなら、僕が親に言いたい言葉の一位である。おそらく僕は愛されていた。母にも父にも愛されていたし、今も愛されているのだと思う。

 僕は日本人の母親とデンマーク人の父親を持ち、デンマークで生まれ11歳までをデンマークで過ごした。デンマークでは普通のデンマーク人として暮らし地元の学校に通い、しかし毎週土曜日は日本語補修学校たる施設で日本語を教えてもらっていた。その日本語補修学校はとんでもなく宿題の量が多かったことを覚えている。本来日本で週5で学校に通い学ぶ内容を週1で済ませようというのだから当然である。

デンマークでの母


 まずは母の話からしよう。当時日本語補修学校に通っていたころの僕は小学生だ。そんな小さな子供が自制できるはずはなく、かといって僕は勉強が好きなわけでもなかったので、できる限り宿題から逃げようとしていた。母はそんな僕を部屋に閉じ込め、「宿題が終わるまでは出てきちゃだめよ」というのだった。僕は毎週泣きながら宿題をやっていたのを今でも覚えている。とにかく"教育熱心"な母だった。

 僕は当時ゲームにかなり執心していたが、ゲームは1日1時間までと、ゲーム機を僕の手の届かないところに隠されたりしたこともあった。それが日本であるのならまだ納得できたのかもしれないが、(いや、おそらくしなかっただろう)僕が住んでいたのはデンマークだ。かなり自由度の高い国だから、周りの友達は誰一人としてそんなことをされたりはしていなかった。ゲームを隠してくる母親は、当時の自分から見れば「悪」「憎しみの対象」「僕という"日本人"と他のデンマーク人を差別化する点」以外の何物でもなかった。
 今振り返って見てみれば、それは生活習慣のためだとか依存しないためとか、色々理由は考え付くし、それが母親なりの愛だったことはわかる。だがそれが小さい子供に通じるのか、というのが問題だ。

デンマークでの父


 次に父の話をしよう。父はとにかく無関心だった、ように見えた。こういった言い方をするのは、今でも判断しかねているからだ。父が本当に無関心でそういう態度をとるのか、それとも何か別の考えがあるのか、はたまた面倒臭がりなだけなのか…。
 僕はデンマークに住んでいた当時かなり勉強ができた。日本語補修学校に通っていたことも当然助けになっていたと思うが、おそらく地頭がよかったのだろう。だからこそ僕はデンマークの現地校では常にトップだった。いや、トップ以上だった。算数においては小学4年生で小学6年生に飛び級しないかと言われていたほどだった。当時の僕はそれが誇りだったし、父もそれが大層嬉しいようだった。僕がテストでいい点を取ってくると父も満足そうな顔をしていたことを覚えている。だがそれだけだった。父との印象的な記憶は本当にそれ以外ないのだ。

分岐点1

 正直に言うと、子供としてデンマークに住んでいた頃の記憶はほとんど思い出せない。理由はわからないが、おそらく一度言語を喪失しかけたことが関係しているのではないかと僕は思っている。
 こんな母と父に育てられながら僕は11歳で日本へ引っ越すこととなる。理由は両親の離婚。離婚間近になると母が僕に父の悪口を言い始めた、ような気がする。うっすらと残っている記憶の一つに、その頃から沸き始めた父親への嫌悪感がある。時期は覚えていないが、母親から「パパのせいで離婚するハメになった。」だとか「泣いている私に無理矢理ハンコを押させた。」などと繰り返し聞かされていたことは、はっきりと覚えている。


 読んでいて気持ちがいいものでもなかろうに、ここまで読んでくれてありがとう。次の記事では日本での僕の生活について書いていくので、興味があるのならぜひ読んでいってほしい。


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