
言葉にできないことで。
先々週の土日に個展に行ってきた。
たまたま知り合いがFBでシェアしていて、HPを見たときに、
「あ、これは行くやつ」と思って、数日後に足を運んだ。
銀座の中にある小さなギャラリー。
最初に目に入ったのは、とてもカラフルなキャンパスの中に大きな丸が映し出された作品。
作品を作った中村さんの声を聴きながら作品をみる。
この文章を書いている時にその作品をみていた感覚を思い出すのだけど、その時の感覚とは違っていて、「あぁ、一期一会だなぁ」と思う。
作品をみている時から、
「この感覚はどんなに力を振り絞ろうが言葉にはできない」と思った。
そして、「そんなもんだよな」とも。
次に私の心を捉えたのは、白と黒だけで描かれた作品。
遠くから見るとグレーの一枚の絵に見えるのだけど、近寄ってみると、いろんな白があって、黒があって、いろんな凹凸があって。
「あぁ、私が生きている世界と同じだな」
って感じがした。
次の作品をみている時、ふと似たような感覚を味わったことがあるなと思って。
思い出してみると、それは深い瞑想状態の時と似ていて。
あと、森にいる時と同じ感覚。
私が絵をみているのか、絵が私をみているのか、どちらなのかわからなくなる。
それがとても心地良くて、「ここで寝れたら最幸」って思う。
そして、足はメインの作品「鏡廻」の前にたどり着く。
真正面からの写真を撮らなかったのは、
真正面から写真を撮ったとて、私が感じた感覚の0.1%も捉えないと思ったから。
この作品まで見て、すごく感じたことがあった。
「中村さんの作品は中村さんが描いたんじゃない、中村さんの体を媒介にして、大いなる何かが描かせたものだ」と。
全ての作品から、中村さんの意図をほとんど感じない。
それは、とても心地が良く、優しく、優雅で、荘厳でもあった。
ただただ、中村さんの作品に出会えたことが幸せで、だけど、出会うことになっていたのだと知っているような感覚。
キュレーターの方にどうでしたか?と訊かれた時、口をついて出た言葉は、
「全ての作品に「祈り」を感じました」
その祈りは、何かを願う祈りではなくて、
人間が生物として生を受けて、この世に生まれた時に持ってくる祈りみたいな。全生物に共通している何かのようなもの。
今の私には、その何かを言語化するためのボキャブラリーがなくて。
でも、その言語化できないことがとても心地良くて。
言語化できないことで、その感じたものが熟成されていく感じがする。
そして、その過程はとても柔らかく、優しく、暖かで、ゆっくりとぎゅーっと抱きしめたくなる。