御殿場高原より 57 おふくろの味

おふくろの味

 昔,息子の足火が大学院生であったころシーグラフ(Special Interest Group on Computer Graphics)の大会に出るというので,アメリカ南部のミシシッピー河の河口のニューオーリンズについて行った.ダラスに直行してニューオーリンズに入るはずだったが,直前にフライトキャンセルになってシアトルヘ飛んでからダラス経由でニューオーリンズとなったが,おかげでシアトルまではビジネスクラスに乗せてもらって,さらにアメリカの風土を北から南に見ることが出来た.ニューオーリンズではミシシッピー河岸近くにあるヒルトンホテルがとれなくて,歩いて15分ほど川岸から離れたホテルに泊まることになったために,会場まで行く途中でMother's(おふくろ屋)というガイドブックに出ている食堂で毎日食事をすることになった.安くてうまくて,時々行列ができる時もあった.
 おふくろの味,か.子供の時に母親が作ってくれる食べ物の記憶である.
 月曜日に看護師のマキさんと食べるお昼の中には「カレー」がある.いつもは中村屋とか神田軒などで売り出している袋入りのビーフカレーに,柔らかいステーキ肉を角切りにして炒めて加えたり,野菜を加えたりして調理する.まるで最初から自分が作ったようなカレーになる.ただ,こういう食堂用のカレーは良く煮込まれていて野菜などほとんど影も形もない.御殿場にはインド人がやっている「ガンジス川」というカレー屋があって,ナンとカレーを食べさせてくれる.野菜カレーは,たとえば,ナスなどが切った形のままにしてあって,言い換えると,カレー汁に煮たナスを混ぜたという感じのものである.それをナンで食べる.しかし,これがなぜか懐かしいのだ.どうしてだろう考えた結果,子供の時に母が作ってくれたカレーを思い出した.
 若いころから,本を読むことと,時間ができると山登りをしていたらしい母はいろいろな料理を習うまで手が回るはずはなく,普段は和食以外は作らず,時にはケチャップをかけたオムライスを作ってくれたが,毛色の変わった料理と言えばカレーであった.母は「お昼はカレーよ」と言って,ジャガイモやニンジンの皮をむいて大きく切った.さらに玉ねぎをみじん切りにして炒めた.牛肉の小間切れを入れて,最後に小麦粉と缶入りの特製S&Bカレー粉をバターで炒めてからお湯で解いて,とろっとしたカレーを作った.野菜ゴロゴロのビーフカレーで,必ずコップに水を入れて添えて出してくれた.これが私の覚えている「おふくろの味」である.もう80年も前の話であるが,いつも心のどこかが懐かしがっていて,また食べたいなと思っていた.そんな話をしたら,マキさんが,家からジャガイモと人参と玉ねぎを持って来て,我が家の台所でむいて切ってくれたので「おふくろのビーフカレー」を作ることになった.タマネギを軽く炒めてからジャガイモとニンジンをクロックポットに入れ,ちょっと味を付けて一昼夜煮てから,母の手順に従って作ったら上手に出来て,母がそうしてくれたように,コップに冷たい水を添えて出した.マキさんは「おいしい」と言いながら,昔子供の時に私が「辛れー」と水を飲んだように,時々水を口に含み,残っていた村上重の瓜の奈良漬けを時々つまんだ.母のカレーにはリンゴジュースも蜂蜜も入っていない.特製S&Bのカレー粉だけの大人のカレーであった.三歳下の妹はこのおふくろのカレーを覚えているだろうか.私より小さかったので,たぶん,覚えていないだろうが,食べさせてみたい.さらに下の妹や弟たちにも.ただ,彼らは終戦後生まれで,食糧難だったので牛肉など手に入らず,たぶん作ってもらったこともなくて,そういう思い出はないかもしれない.
 母は北条一族に小田原の城を奪われ,富士山の裾を迂回して山梨に通じる今の鎌倉街道を落ち延びて上野原に住みついた倉林一族の末裔で,昔は武士だったかもしれないが,上野原では農作をして生活していたのだろう.もう一つの「おふくろの味」と言えば漬物で,母の「糠漬け」は茄子も胡瓜もおいしかった.特に茄子はミョウバンでまるごとこすって漬けるので,その色は見事だった.イクに「おいしい糠漬けを食べさせてやるぞ」といろいろ工夫してみたが,我が家はベタ基礎なので,台所の下に漬物置きの空間を作ることができず,母のようにいい色でおいしく漬けることができなかった.
 子供の頃に母親が用意してくれた食事は大人になっても消えない.
 アメリカ人の友人のマケーレブと京王プラザホテルで仕事をして,お昼を食べることになった.いつもは運動を兼ねて新宿駅の方に歩いて,小田急ハルクの裏通りの地下にある「クープシュー」というフランス料理屋のランチを食べるのであるが,その日は雨だったので,ホテルの食堂に降りてサンドイッチを食べることになった.一階にある食堂「樹林」は,道路に面した窓が床からガラスになっていて,外は「樹林」になるように工夫されていて,私の好きな食堂である.その日は緑の木の葉が雨に濡れてきれいだった.コーヒーを飲んでいるときにサンドイッチがきた.そのままサンドイッチをほうばっていると,マケーレブが「何だか違うな」と呟いた.しばらく考えてから彼は「そうだ.サンドイッチには牛乳なんだ」と言って,牛乳を追加注文をした.彼曰く,学校から帰ると,いつも母がサンドイッチを作って待っていてくれて,椅子に腰かけるとサンドイッチと冷たい牛乳をコップに入れて出してくれたんだ,と.マケーレブの郷里はバージニア州のWoodstockという小さな町で,近くにはインディアンの娘と白人の青年の恋の舞台になったシェナンドー河が流れているという.私の眼には椅子に腰かけて足をぶらぶらさせながらサンドイッチを食べ牛乳を飲む小さなマケーレブが浮かんだ.彼にとって「サンドイッチと牛乳」はおふくろの味なんだと思った.
 だいたい地方の小都市には「おふくろの味屋」がある.今はもうないが,以前,御殿場には「茄子」という料理屋があって,お昼には「おふくろの味」弁当を提供していた.イクとほとんど毎週出かけていって食べた.おいしかった.山口県の湯田温泉駅から歩いて中原中也の記念館の近くの広い通りに出たところにも「おふくろの味」屋があって,いつか食べた懐かしい料理を出している.安くボリュームたっぷりのお昼を楽しむことが出来る.そう言えば,新宿の「クープシュー」も懐かしい味だった.その観点から言うと,御殿場の「メゾン・ケイ」はおいしい料理を食べさせるが「若いな」と感じる.同じくフランス料理なのだが,京橋の「シェ・イノ」は味が安定していて懐かしさを感じる.たぶん,おふくろの味はなつかしさに支えられて一層おいしいのだろうと思う.しかし,最近は懐かしい味も自分で作って食べることが出来なくなった.以前は,冬になると魚屋で鮟鱇を一匹さばいてもらって「アンコウ鍋」を作ることが出来た.また,この時期には甘鯛が店先に並んで,少し大きめのアマダイを開いてもらって一夜干しにして,焼いて味醂をかけてイクに食べさせることが出来た.しかし,最近は魚屋に鮟鱇も甘鯛も見かけない.魚屋に尋ねたら市場には出るのだが,仕入れても高くて売れないのだそうだ.魚屋の店先は「切り身」のパックと干物や佃煮のような加工品ばかりになっている.だんだんおいしいものが消えてなくなっている.もうおふくろの味は再現できない日本になりつつある.

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