御殿場高原より 48 英語の歌を歌う
英語の歌を歌う
息子の足火が死んだときには泣けなかった.妻のイクが死んだときには涙が流れた.しかし,どちらも胸の中には塊りができたように息苦しい.本当は「わー」と大声を出して叫びたい.が,それもできない.それで歌を歌うことで発散させようと思った.
足火の死んだ時には,声楽の先生のところに出かけた.中学・高校では,選択科目はずっと「書道」だったのだが,高校2年の時に気まぐれをおこして「音楽」にした.「音楽」は好きなものが一年生の時からとっていて,それぞれパートはもう決まっているらしく,途中から入った私には先生も困って,好きなパートに入って歌えと言った.「好きなパート」と言われても,どのように分けられているのかわからない.それで,男だから男子のパートに入ったのであるが,男性はいつも低音ばかり練習させられた.私は合唱ではなく,一人で「菜の花畑に 入日薄れ」と歌いたかった.ところが,そのメロディーのパートは女子が歌う.そこで女子のパートに入ったのだが,それでは女子が嫌がって,結局,うろうろして,歌をきちんと習わず仕舞で一年が終わった.その時音楽の教科書で練習した歌がグノーの「アヴェ・マリア」とメンデルスゾーンの「歌の翼に」で,それを完成したいと思って,声楽の先生に頼んだ.しかし,私の覚えている歌詞が見つからなかった.グノーの「アヴェ・マリア」には堀内敬三の訳詞があるが,終わりのところの一気に一オクターブ上がるnune et in hora, in hora mortis nostrae(今も,そして死を迎える時も)の箇所が私には歌いにくかった.それで,仕方なく,足火が通った小学校の道をイメージしながら歌えるように,白秋の「この道」を習い始めた.が,「アカシヤの花が咲いている」のところを,死んだ足火を思うとどうしても「アカシヤの花が咲いていた」と過去形で歌いたくて,結局,歌詞と折り合いがつかない.唱歌というのは,なんだか,歌詞通り,譜面通り歌わなければならない窮屈さを感じて止めてしまった.どうもジャズのように自由に歌うことはできないらしいのだ.
イクが死んで胸にさらに大きな塊ができた.これも吐き出したい.それで英語で歌を歌って解消することにした.毎日,朝から「NPO法人・言語研究アソシエーション」のために日本文翻訳の資料を書いているので,「視覚符牒」(文字)としての英語には毎日触れているのであるが,1995年にチュニジアで行われたIEEEの国際会議以降,外国に出ていないので,約30年ほど英語を喋っていない.もう外国に出かけて英語でしゃべることもないと思っていたのだが,イクが死んで後片付けをしてくれた姪が住んでいるカルフォルニアに行ってみたくなった.私はアメリカには,当時,東大の大学院生であった足火が,ニューオーリンズ(New Orleans)で行われるSIGRAPHの大会に出ると言うので,ついて行っただけである.足火がコンピュータグラフィックスの大会に出ているあいだ,私はジャズを聴いたり,テネシー・ウイリアムズ(Tennessee Williams)の芝居『欲望という名の電車』(A Streetcar Named Desire)のタイトルにもなった電車に乗ったり,映画『イージー・ライダー』の終わりのほうで使われたニューオーリンズ特有の地上に棺桶を置く墓地を見たり,そこからミシシッピー河に向かって歩いたりした.アメリカの文学や宗教を勉強して来たくせにアメリカ現地を知らない.死ぬ前に行ってみよう.それで,英語の歌を歌って胸の塊りを吐き出しながら英語の発声練習もしようと思った.
御殿場にある語学学校に電話で「英語の歌を教えることの出来る人はいないだろうか」と問い合わせると,若いころからバンドを組んでジャズを歌っていたオーストラリア人がいるとのこと.それで,毎週一時間の個人レッスンを頼んだ.歌は,イクと聴いて「いいね」と選んだボーカル曲が30曲ほどカセットにまとめてある.そう,これはイクが足火のお産で築地の聖路加国際病院の特別室に入ったときに持たせたものである.世界中の気に入ったボーカル曲が30曲ほど入っている.イヴ・モンタンの『枯葉』とか,カエターノ・ヴェローソの『ククルクク・パローマ』,エンリコ・マシアスの『恋心』,井上陽水の『傘がない』など.その歌の中から,まずは,ゆっくり発音練習できる英語の歌,Danny BoyとGreen, Green Grass of HomeとI left my heart in San Franciscoを選んだ.
最初の無料レッスンで,今後のレッスンのために,声の質と発音をチェックされ,ちょっと歌ってみることになった.先生は70歳代の男性で,ギターを持って来ていたが,私の選んだ歌はカラオケにあるとのことで,カラオケを利用することにしようということになって,パソコンを操作したら伴奏が聞こえてきた.それに合わせて歌って,まず声の出し方をチェックされた.「diaphragmを震わせろ」,つまり喉ではなく腹から声を出せ,ということである.パソコンで英語のカラオケができることを知って,家に帰ってから「Karaoke Danny Boy」を打ち込んだら,同じ曲面が出てきて,練習することができた.便利なのだなあ,と感心した.それから一週間たって,本レッスンに行ったら,まずwarming upだと言ってrip rollingをすることになった.要するに唇を震わせる練習である.有色人種,つまり,黒人も日本人も,白人に比べると唇が厚い.英語は子音の言語なので,喉・鼻・唇を巧みに使わないときれいな音にならない.たとえば,schoolのchは,日本人は口腔の前で「クゥ」となりがちであるが,イギリス人は口腔の奥を上げて,つまり.喉で「ク」と発音する.governmentも日本人は正確に発音できない.鼻音のnが響かないのである.逆に「御殿場」を英米人にGotenbaと教えてもダメで,Gotembaと教えないと「御殿場」にならない.唇も難しく,たとえば,日本人のveryは,多くの人は「ベェリ」であるが,英語のveryは「ヴゥェリ」である.それで,歌の練習の前に,まず唇を動かす練習rip rollingをした.単純に唇を震わせる練習から「あああああ」をトーンを上げたり下げたり,切れ目なく震わせたりしながら8回ほど練習する.中々本格的である.それから,次は「息」(breathing)の練習である.ついでであるが,この単語breatheはthの発音が難しい.英語の発音は実際に聞いて真似して聞いてもらって覚えるのがいい.たとえば,you'llなど口の恰好を見て真似ないと同じ音にならない.breatheの単語の最もいい発音例は,周防監督の『Shall we ダンス?』のハイウッドメイク版で,ダンスの先生役のジェニファー・ロペスがコンテストに出る前に固くなっているリチャード・ギアに"Breathe!"(深呼吸して)と声をかける場面で口を見ながら聞くことができる.(さらについでであるが,thにsを加えると,アメリカ人でもclothsを正しく発音するのは難しいのであるが,アメリカ映画『マイ・フェア・レイディ』の中でイライザ・ドウーリトル(オードリー・ヘップバーン)の父親アルフレッド・ドウーリトル役で出たロンドン出身のイギリス人俳優スタンリー・ホロウエイが見事に正確な発音を聞かせてくれる.)
で,rip rollingの次にbreathingの練習をする.横隔膜(diaphragm)を抑えて先生の"Breathe in." "Hold." "Breathe out."という号令で一緒に呼吸の出し入れを八回する.それから背中に手をまわして同じ呼吸練習を八回する.それから脇を両手で抑えて同じ呼吸練習を八回する.どの動作でも胸腔が膨らむことが確認できないといけないと言う.
それから,歌詞を読みながら息継ぎの箇所を確認し,一行一行,シラブル数を確認する.たとえば,the flowers are dyingのflowersはtwo syllablesなのだがone syllableに発音しないと音符と合わない.こういう点検をしてから歌う練習をする.ジャズシンガーだった先生は,誰かの真似をするなと言う,言葉に自分のイメージを加えて歌えと教えてくれる.たとえば,the pipes, the pipes are callingと歌う時には,兵員召集のバグパイプの音が山間に木霊していることをイメージせよと教える.そうすると,自然とthe pipes, the pipesを強く発音するようになると言う.同じdeadでもIf I am deadのdeadは短く強く,次のAs dead I well may beのdeadは柔らかく長く.なるほど,のっぺりしていた歌が立ってくる.ああ,これはジャズだと感じる.いい先生に巡り合ったと思う.
レッスンの終わりごろ,先生は「子供のころ,朝,髭を剃りながら父がこの歌を歌っていた.あなたはどうしてこの歌を選んだのか」と尋ねた.
私がアイルランドのこの歌を選んだのは,大学2年の時,西田実教授とアイルランドの劇作家ジョン・ミリントン・シング(John Millington Synge)の『西の国の人気男』(The Playboy of the Western World)をゼミで読んだからである.西田教授のゼミを取ったのは3人で,私の他には,木下順二作・山本安英主演の『夕鶴』を演出した岡倉士朗の娘とその友達であった.その頃私は同人誌に芝居やラジオドラマの脚本を書いていた.私はついでにシングの全作品を読んだ.全作品と言ってもEveryman's Libraryの一冊にまとまる程度しか彼は書いていなくて,他に一幕物の劇が四つとアラン島紀行だけであるが,冬には荒れる暗い北海に漁に出る夫と息子を浜で見送る妻・母の「もう二度と会えないかもしれない」という不安と悲しみが劇化されていて哀しかったのを覚えていたからである.イクは,足火が死んだとき,認知症がかなり進んでいて事態を正確に把握できていないように思えた.ただ,いつもと違うことが起きているとは感じたらしく,12月21日の朝から晩までの12時間,寒々とした日赤病院で耐えていたが,疲れ果てて,夕方,「オオ僕,もう帰ろう」と私に小声で言った.私はイクが足火の死を認識できなくてよかったと思うと同時に,認識できない悲しさと認識出来たらどんなに悲しかっただろうと思って悲しかった.したがって,私の心の中にはいくつもの悲しみが重なっていて,固まっていて息切れがするのである.生んだ愛する子を失うかもしれない親の不安と悲しみ.Danny Boyはその不安と悲しみを歌っている.この歌を老元ジャズシンガーの教えに従って,言葉にイメージを込めて歌うと,胸の塊りがいくらか溶けて小さくなっていくように感じられる.そう,私たちイクとオオ僕は,神を知りたいという理性と意志と熱狂を心に秘めた中世の修道士のように,自然の摂理に従いつつ理性的であること意志的であることを楽しむstoic epicureanを旨として生きてきた.死も自然の理と承知できる人間であることにがんばってきた.歌はグレゴリアンチャントのように,祈りを通して,悲しみとか,喜びとか,胸にためてある心情を開放する道具であるように感じる.足火もイクもいなくなった家の中で,独りで歌を歌う.がんばって元気なふりをしている,それで,なんだか人間は哀しいなと滅入る自分を励ましている.が,犬や猫のように,不平・不満・人恋しさをストレートに出せるといいだろうなと思う.もう一度イクに「オオ僕」と呼んでもらいたい.
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