御殿場高原より 58 心のコミュニケーション
心のコミュニケーション
私が通った福岡県飯塚市の飯塚国民学校(今の飯塚小学校)は校門を入ると約千坪の運動場があり,左の隅の小さな木立の中に奉安殿があった.児童は校門を入るとすぐ左を向いて帽子を取って気を付けをしてお辞儀をしなければならなかった.右の隅には二階建ての小さな校舎があって専修学校の教室として使われていた.校門から運動場を挟んで正面が学校の玄関で,職員室とか校長室や小使い室と雨天体操場になる講堂があり,その奥の外にプールがあった.五年生まで泳げなかった私が父から習った日本伝統の泳ぎ方「抜手」で地区代表になって泳いだプールである.この真ん中の建物を挟んで右側の二階建ての校舎が一年生から三年生,左側の校舎が四年生から六年生の校舎であった.この三つの建物は渡り廊下で繋がっていた.
右側の校舎の二階の三番目の教室だったから小学校の三年生の時だろう.担任は古賀先生という女の先生であった.ご主人は戦死して,戦時中だったためかそのお墓をクラスで掃除に行ったことがあった.陸軍少尉となっていたから,たぶん古賀先生のご主人も師範学校か大学を出た教員だったのだろう.古賀先生は雨の日には何故か子ども向けの講談本を読んで聞かせてくれた.それで,「霧隠才蔵」とか「田宮坊太郎」とか「真田幸村」などの名前や「お主,出来るな!」というようなセリフを覚えた.みんな雨の日を待った.なぜ雨の日には物語を読んでくれたのかは,今でもわからないが,古賀先生の国に対するささやかな抵抗であったのかも知れない.たぶん,戦争末期で,先生は敗戦を予測して文部省の指導要綱などどうでもいいと思ったのだろう.物語がちょうど佳境に入って先生の声しか聞こえないとき,教室の後ろの隅に置いてある掃除道具の箒がバサッと倒れたりしてみんなで悲鳴を上げたりした.国語の教科書よりずっと面白く,私はここで活劇物語の面白さをたっぷりと味わった.そして,描写より言葉のやりとりに関心をもった.中学生になってからは,近所の同級生の武ちゃんに代わっておじいさんのお供をして嘉穂劇場の枡席で講談を聞いたり芝居を観たりした.前進座の『佐倉義人伝―佐倉惣五郎―』を観たのもこの劇場である.それが根っこにあったのか,大学一年の時に誘われて四人の同学年生とガリ版刷りの『蒼穹』という同人誌を作ったとき,私は小説に興味がなくて,いつも言葉のやりとりを中心とするラジオドラマとか芝居の脚本ばかり書いて載せた.大学でも,アメリカの劇作家テネシー・ウイリアムズとかアーサー・ミラーとか,アイルランドの劇作家ジョン・ミリントン・シングを演習でとった.私は自分の好きな勉強のことはよくしゃべるが,「隣の猫が子猫を三匹産んだ」というような日常の会話は苦手で,黙っていて,そういう日常会話を聞き,言葉に付随する表情の変化を見るのが好きであった.だから今でも「文章語」より「話語」の方が好きである.話し言葉は顔の表情と重なって心の表情を映し出す.芝居とか映画は私にとっては楽しい時間で,中野,新宿,池袋などの(三本立ての)名画座で月に36本映画を見たこともあった.太宰治はたしか「「いい月ですね」「ええ」では芝居にならない」と夏目漱石を皮肉ったが,無言も間(ま)も含めて話し言葉の世界では「表情」が付加されるので,私には楽しかった.日本人は表情から「承認」と「拒否」を読み取ることが難しいが,欧米では「承認要請」の時以外は,普通は他人を寄せ付けないような表情をしている.それだからか,何かのきっかけで見せる「承認」の笑いは,瞬間的であるが心の扉が開かれたようで美しい.「あんなブスっぽい女があんな表情豊かな笑顔を見せるのか」と,実年齢より上の老け役を演じていたシモーニュ・シニョレの,振り返って友達と認識したときに見せる一瞬の笑顔などに感動した.迎えに来ているはずの恋人が空港のラウンジにいないときの,分かっていたんだという気持を含んだ複雑な笑い.よく演じるなと感心する.大学の教員になって,夏休みに仕事でイギリスなどに行くと,そういう笑顔を間近に見ることが出来た.ロンドンの地下鉄に乗って,切符を眺めていると,隣のおばさんがすぐ"Can I help you?"(困っているの?)と声をかけてくる.その時の丸い目は大きくてガラス玉のようであるが,応じるととたんに目が優しい表情に変わる.また,普段は"Do you have...?"を使うのであるが,ボンドストリートの高級セレクトショップなどの入り口に立っている太った年をとった門番にはちょっと古いイギリス英語で"Have you...?"と言うと,一瞬で目が優しくなる.それを耳にしていたのか,中に入ると薄手の品のいいブラウスを着た年かさの女店員が"Can I help you?"(いらっしゃいませ)と笑顔で迎えてくれる.それも楽しかったが,同じ言葉が譴責にもなることも体験した.イギリスの湖水地方の入口の町ケンダル(Kendal)で道に迷って,同じ道を車で幾度も通ったら,おじさんが通りに出てきて"Can I help you?"と尋ねた.これは「うるさいな.何やってんだ」である.ニューヨークのイエロウーキャブで運転手から"May I ask you a favor?"とfavorにストレスを置いてゆっくり言われたら,すぐ降りた方がいい,と言う.
最近は,観光で日本にくる人の中にも日本語をしゃべる人を見かけるが,仕事で来る人はだいたい,本国で現地語を勉強している.たとえば,イギリスでは社員を東南アジアに派遣する際には,「ピジンイングリッシュ」をベルリッツなど専門の語学学校で前もって業務の一環として(とは,会社がお金を出して)学習させる.したがって,現地に行ってコミュニケーションで困ることはあまりない.異国で仕事をするからには,現地の言葉を習ってくるのは当り前である.
以前,御殿場の二の岡荘に住んでいるとき,近所にアメリカ人のパールさんの別荘があった.日本ユニカーという合弁会社のアメリカ側の役員として日本に来ていた人で,物静かで,アメリカでも上流に属する夫婦であった.奥さんはスタイルのよい美しい人で元ファッションモデルだそうだが,イクが聞き出したところ「私は彼の静かなところが好きなの」と言っていたそうである.彼らは別荘にきても午前中は漢字の書き取りをして,日本語を学ぶのに一生懸命であった.そして,プールに行く途中で我が家の前で顔を合わせると,日本に来ていて日本語が十分にできないことを恥じていた.
どの人種でも,どこの国民でも,上等な人間とそうでない人間とがいる.上等な人間は相手に対する距離を正しくつかみ,適切に対処できる教養を持つことを当然と思い,無知を恥じる神経を持っている.この種のタイプの人間は,他所の国に行って,自国の言葉で通すというような無神経さを見せない.その国の言葉を習い,使うよう努める.言葉には,それぞれ文化があって,言葉を無視するということは,とりもなおさず,その言葉を使用している人々の文化を無視することである.イギリスに行って英語を使わないということは,イギリスの文化を否定することになる.言葉は文化を背負っているのである.ただ,ヨーロッパのように,国土の狭い国が多くて対応できないこともある.フランスなど,ロワール川以北のパリ方言が標準フランス語になっているが,本当はロワール川周辺のフランス語が最も美しい.川の周辺には語学学校がたくさんあって,俳優志望の若いフランス人も矯正に通うという.それより南のボルドー中心の地方,さらに南の地中海に近いプロバンス地方とかなり発音に地域差がある.英語はもっとひどくて,ロンドンの街頭で地面に布を敷いてアクセサリーなど売っている「香具師」(ロンドンの寅さん)の下町英語(オーストラリア英語とほぼ同じで,todayは「トゥダイ」と発音する)はほとんど理解不能だし,ロンドンの一地域Kensingtonには「ケンジントンアクセント」がある.しかし,私のような「言葉好き」には,「言葉の地域性」(方言)は楽しい.たとえば,「し」に点々と「ち」に点々の区別などもう気にかけない人が多いが,四国の田舎のおばあさんはまだ自然に区別している.普通の人でも「蜆」と「縮」と言ってみれば口の形が違うことに気づくはずである.私には東京弁の「何してるの」より,福岡県飯塚市の「なんしょると」の方が柔らかくて雰囲気を含んでいておもしろい.が,「なんばしょっとね」と伊岐須のおばさんから言われると怖い.広島出身の先生が「今年の学生はおぼこいですね」と言った時には,ああ,優しい,いい音だと思った.大学の音声学のレポートには,子供のころ住んで覚えた言葉から「しなさい(東京)→しんさい(鳥取)→しんしゃい(福岡)」という音韻変化を選んで纏めて出して「優」をもらった.電話の声や話し方にも敏感で,いい声・いい話し方にはすぐ「いい声ですね」と褒めてしまう.インターネットで注文の出来る現在でも,メール(書き言葉)ではなく電話(話し言葉)で注文をする.たとえば,東京泉屋のクッキーを注文するときには泉屋本店に電話して「総務課の○○さん」と指名して注文の会話をする.彼女の声はとてもいい.漬物の村上重にも,お茶の竹茗堂にも電話で注文する.私は声の表情を聞くのが好きである.話し言葉には瞬間の心が付いている.
もう,ずいぶん昔になるが,フランクフルトのホテルでドイツの仕立て屋の老人と話をしたことがある.イギリスで仕事をする際には,まずパリに入って二三日いつも泊るホテルで過ごしてからイギリスに出掛け,帰りもパリの同じホテルで二三日過ごすしてから帰ることにしていた.一年に一二度利用するだけなのに,毎年となると,データが整理されているのか,チェックインすると支配人からチーズとワインのプレゼントがあり,外の音が聞こえない中庭に面した部屋が用意された.ほとんど毎週使っていた新宿のホテルではこういうサービスを受けたことがない.「顧客」という感覚が日本とは違うなと思う.ある年,帰りにドイツのフランクフルトに用事が出来て,それでフランクフルトのホテルに泊まることになった.私は一人で食事をするのが嫌いで,たとえば,ロンドンなどでも,お昼時に,小銭を数えながらハンバーグ屋に向かっている若者を見つけると,「おい,一緒にステーキ,食わないか.おごるぜ」と誘う.ドイツ語が出来ないので,ホテルの食堂で一人で食事をしていたら,疲れた顔をしてコーヒーを飲んでいる老人がいた.マネジャーに私のテーブルに来てもらってくれと言ったら,彼は本来このホテルに来るような人ではないと渋ったが,一人で食事をするのはつまらないからと頼んで来てもらった.彼は洋服のマイスターで弟子の職人を何人か使っているということであった.もうすぐイタリアから息子が神父の資格を取って帰ってくるのだと言う.勉強好きの子だったが大学へ行かせることは出来なかったら,教会の神父さんが推薦してくれて神学校へ行くことになったのだとのことだった.ヨーロッパの教会は文化の継承の一翼を担っている.お金がなくても勉強好きな子供には無償で神学校へ入れてくれたり,声のいい子供は聖歌隊に加えて音楽の勉強をさせる.宗教が生活の中に入っているいい仕組みだなと思う.
私はドイツ語は話せない.相手の老人は日本語ができない.どうすれば話ができるか.私が英語で話し,相手はフランス語を話すことになった.
私が口で使える言語は日本語と英語,老人はドイツ語とフランス語,そして,耳で理解できるのは,私が日本語,英語,フランス語,彼はドイツ語,英語,フランス語であった.それで上のような言語の組み合わせになったのである.
私も第二次世界大戦後に英語を学んだ.彼も戦後に英語が聞けるようになった.彼の話によると,仕立て屋としてアメリカの兵隊の要求を聞き取るために英語が聞けるようになったが,喋ることまではしなかったというのである.
老人と話ながら私が感じていたことは,お互いが借用言語でしゃべり合っているが,これがコミュニケーションなのだろうかということだった.これは"How much? (Combien?)" "Deux frnacs. (Two francs.)"と同じで,事務用・商売用の単なる必要な情報の交換に過ぎないということではないか.これなら互いに多言語翻訳機を真ん中に置いて,私の日本語を機械がドイツ語に変換発声し,彼のドイツ語を機械が日本語に変換発声するというようにセットすれば,互いに相手の母語を翻訳機で自分の母語に翻訳させて聞き取るという形で,互いに平等であり,自国の文化を失わずに互いに卑屈になったり恥じ入ったりしないで済むのではないかと思われた.たぶん,工学の技術者は,これが言語による「コミュニケーション」ととらえて,機械翻訳はこれに対する技術者の技術的挑戦であったのだろう.しかし,文系で言葉好きの私は,心や表情はどうすると問うてしまう.私にとってこれは「コミュニケーション」とは言えない.
私たちは島国なので,昔から音も聞かず,表情も見ずに,書籍を読んで外国語を学んできた.漢文を読み,オランダ語を読み,英語を読んできた.もしかしたら,あまりお喋りしない,引っ込み思案の昔の日本人には,これが最も合っていたのではないかと思う.昔の英語学習法も捨てたものではないと言ったのは,確か渡部昇一氏か外山滋比古氏ではなかったか.ただ,この方式は「聞く能力・話す能力」への対応が全くと言っていいほど欠けていた.
旧制の高等学校では,明治の「お雇い外国人」の名残りか,文科も理科も外国語は外国人が教えた.私の知人の数学の土師さんは東大の工学部出であるが英語の教員免許ももらっていたし,東大の国文科を出た国語の山本さんは,戦後広島で英語の通訳をして生活をしたと言っていた.明治維新の人たちは,西欧の文化を移植するには相手の心も知る必要があり,まずは「聞く」ことから異言語を習得し始めなければならないと知っていたのである.母親の言葉や文化を吸収するために,母親(の顔)を真剣に見詰める赤子のように.すると,すぐ口が連動する.
現在,出回っている音声認識をベースに作られた機械翻訳器は,大衆化した外国語学習の「聞く能力・話す能力」の欠陥を補うものである.今のような翻訳器があったら,たぶん,フランクフルトで私は母語(日本語)で,老人も母語(ドイツ語)で情報交換することが出来ただろう.しかし,機械翻訳の最大の欠陥は異言語で異文化に接しながら,相手の文化を自分の文化で解釈してわかった気になるという点である.日本語でしゃべる.機械が相手の言葉に翻訳する.それを相手は聴く.相手がしゃべる.機械が日本語に翻訳してしゃべってくれる.これで情報交換は出来るが,どちらの人も自分の言語文化圏からお互いに一歩も出ていない.知識や情報は増えるかもしれないが,その理解は母語的な解釈である.視野や心は広がらない.感情の交歓など決して起こらない.言葉が顔の表情と重なって心の表情を映し出すという基本要素を反映させることができないからである.言うなれば,無表情なロボット同士が話し合っていることになる.現在の機械翻訳は工学者の夢の,いわば未完成品なのである.知り合いの情報科学の専門家が「手話」をコンピュータに示したいと言ったとき,私はお互いが打ち込んだ言葉が瞬時に相手の機器の画面に出るようにすれば,相手の表情を読みながら文を理解することができて,実際の会話に近づくことが出来るのではないかと言ったところ,「技術者として手話を画面に提示してみたい」という答えが戻ってきた.「ああ,こういうのが技術者魂というものか」と感動したが,それは「コミュニケーション」ではない.言語による単なる「情報交換」である.翻訳機を使えば異言語人との情報交換はできるのだから,異言語の学習など不要のように思われるかもしれない.しかし,もし,人として交わりたいなら,自分で相手の言葉を聞き取ることが出来るように訓練しなければならない.これは,その気になって,その気をちょっと持続させれば簡単である.幼児に足の長い黒い斑点のあるポインターを見せて「ワンワンだよ」と教える.柴犬を見せて「ワンワンだよ」と教える.ブルドックを見せて「ワンワンだよ」と教える.いろいろな種類の犬を見せて,最後のダックスフントを見せて「これは?」と聞くと,幼児は「ワンワン」と言う.幼児の脳には「犬の集合」が出来ている.この集合力を生き物は生きるために持っている.言語は人間が生きるために持っている集合能力の一部なのである.赤子はお母さんやお父さんや兄姉の言葉を聞き取りながら,集合力を使って言葉の再生力を育み,言葉とその使い方を身につけていく.犬にも猫にもカラスにもこの集合力はあって,人間の言葉や表情を理解する.異言語は場面場面で表情と共に聞き取れるようになれば自然にしゃべれるようになり,「コミュニケーション」ができるようになる.最初は翻訳器のI love you.(愛してます)で始まった恋も,自分で言葉を覚えないと,空港のゲイトでI love you forever.(あなたを永遠に愛しています)と言って去って行く彼を,もう彼とは永遠に会えないのに,うっとり眺めることになる.彼は「さようなら.(もう会うことはないけど)お元気で」と言ったのである.機械翻訳器は商用・特許・契約書・理工系の学術論文など情報交換には大いに使ってよいが,「コミュニケーション」には使えないということを忘れてはいけない.「コミュニケーション」は互いに自分の目・耳・口あるいは手で行うものである.