御殿場高原より 53 俳句と英訳とHAIKU
俳句と英訳とHAIKU
0.はじめに
「俳句」をルーツにしたHAIKUが世界の「最短詩形」として定着している.多くは季語はなく,5・7・5を「文字数」で数えたり,「音節」で数えたり,決まりはない.大体,十七音節あるいは十七語であればいいようである.私もしばらく「国際俳句協会(HIA)」(Haiku International Assciation)に入っていて研究会に参加したり,世界各国で作られるHAIKUを読んだ.それから,日本の俳句を知りたいという意図で英訳された俳句も読んだ.いろいろ工夫して訳されているが,言語の固有性の壁は厚く,日本語の文語文(古文)を訳す以上にむずかしい.それは,たぶん,俳句が,自然の理から離れてイメージの重層化を遂げた新古今和歌集の表現様態の後に発生し,しかも日本語の話語文法をベースに発達したからであろう.日本語では,「名詞」は,文語文と同じように「主語」や「目的語」に使えると同時に話語文では「話題」にも使える.たとえば,「あなた,お昼,食べた?」(こういう言い方は話語ではあまりしないが,可能である)の「お昼」は,いわゆる目的語であるから,この文の発話意図はDid you have lunch?と同じであるが,「お昼,食べた?」は異なる.この場合は「お昼」という「話題」に「食べた?」という「事例」を組み合わせたもので,俳句の「話題(古池や)×事例(蛙飛び込む水の音)」と同じである.また,俳句では,「事例」(五月雨を集めてはやし)をつけた「話題」(最上川)というよな日本人の好きな「連体修飾節+体言」が好まれて,動詞中心構造の英語には翻訳しがたい.英語では,構造的に「主部+述部」の形,つまり,「伝えたい主体(名詞・代名詞)」は「述部(動詞)」の前になければ情報は伝わらない.したがって,俳句をイメージ順に,あるいは情報を同じ比重で英語に変換することは至難である.しかし,言語表現の背後を探ると,英語の表現にも日本語の表現にも,人類の言語の使用法の原理である「比例式」と「三段論法」が隠されていて,日本語の俳句と英語の詩行で異なるのは,情報構造(文構造)の制約のためであるという点だけだとわかる,が,それによって,表現がどう変わるか,たとえば,R. H. Blyth の俳句英訳の変化を見ると,日本語と英語の詩行の「イメージ伝達」の違いがわかり,最短詩形文学(HAIKU)の読みに役立つかもしれない,と思うものの,同時に,これは言葉好きの単なるお遊びと言われるかもしれないとも思っている.
1.R.H.ブライスの俳句の英訳
斉藤秀三郎はその和英辞典の中に川柳をいくつも英訳してみせているが,R. H. Blyth も数多くの俳句や川柳・短歌を英訳したことで有名である.その上,彼自身も俳句を詠んだ.吉村侑久代『R・H・ブライスの生涯―禅と俳句を愛して』(p.78 同朋舎出版,東京,1996/06/22)によると,R. H. Blyth が日本語で詠んだ俳句は二句だけで,最初の一句は京城(現在のソウル市)時代(1938年頃)に詠んだ
葉の裏に青い夢みるかたつむり
(Blyth はこの句を五回ほど書き改めていて,現代俳句協会編『日英対訳21世紀俳句の時空』(p.38,永田書房,東京,2008/09/25)では「青き夢」となっている.ついでに言っておくが,俳句では結構書き直しが多い.たとえば,「閑かさや岩に染み入る蝉の声」も,山本健吉によれば,芭蕉は推敲して数回書き換えている.)
であり.もう一句は辞世の句として知られている
さざんかに心残して旅立ちぬ
である.
最初の句にはBlyth自身が英訳も付けた.日本語の句と彼が訳した英語の詩行を比べると,日本語と英語の情報構造の異なりがよく分かる.日本語の俳句「葉の裏に青い夢みるかたつむり」のリズムは
葉の裏に・青い夢みる・かたつむり
であるが,情報構造的には
連体節(葉の裏に青い夢みる)×体言(かたつむり)
である.
一般に,日本語でも英語でも「名詞 (noun)」と「動詞 (verb)」を組み合わせて「主部 (Subject)(名詞)+述部 (Predicate)(動詞・その他)」の構造で情報の伝達を行う.特に英語では,構造的に「主部+述部」の形にしなければならない.つまり,まず伝えたい「人・物・事(名詞・代名詞)」は「述部(動詞)」の前にくる.この構造になっているなら,俳句でも英語への変換が容易である.たとえば,
つばき落ち鶏鳴き椿又落ちる(梅室)
は,リズムは「つばき落ち・鶏鳴き椿・又落ちる」である.私は,二つ目の「椿」が「鶏鳴き椿」とくっついて「かすかな間(slight interval)」をおいて「又落ちる」と続くところに視覚的現実感があっていいと思うのであるが,構造的には「つばき落ち・鶏鳴き・椿又落ちる」(S+P/ S+P/ S+P) なので,「鶏鳴き椿」+「かすかな間(slight interval)」+「又落ちる」の俳句の味は伝えることはできないが,
One camellia falls,
A cock crows,
Then another falls.
(星野恒彦編著『四季の歓び 名句に英訳をそえて A. ピニングトン,星野恒彦共訳』(p.12 銀の鈴社,鎌倉,2009/10/15)
と変換してHAIKUにすることはできる.これに類するHAIKUに出来る「俳句」は,有名なものでは,
十六夜は・わずかに闇の初哉(芭蕉)
旅に病んで・夢は枯野をかけ廻る(芭蕉)
街燈は・夜霧にぬれるためにある(白泉)
タンポポのポポのあたりが・火事ですよ(捻典)
鶏頭の・十四五本もありぬべし(子規)
などがある.
しかし,それら以外の俳句は情報構造が英語とは異なるので,そのまま英語に変換することは出来ず,適当に英語の情報構造に合うように変えないと,変換することはできない.
もともと英語に変換しにくい日本語独特の情報構造が三つある.一つは「話題×事例」(「お昼 食べた?」の類).二つ目は「話題×事例(主部+述部)」(「象は鼻が長い」の類).三つ目は「連体節+体言」(「太郎の食べた花子の弁当」の類)である.俳句の多くは,これらの構造を組み合わせた「「話題×事例(<連体節+体言)」(秋の夜や・旅の男の針仕事/冬の日や・馬上に氷る影法師/古池や・蛙飛び込む水の音/この道や・行く人なしに秋の暮れ)と「事例(連体節)×話題(体言)の変型」(かれ朶(えだ)に烏のとまりけり・秋の暮/田一枚植えて立ち去る・柳かな/ゆるやかに着てひとと逢う・蛍の夜)である.つまり,俳句はもともと英語には変換しにくい日本語の話語文(法)構造になっているのである.上のブライスの詠んだ最初の俳句
事例(連体節・葉の裏に青い夢みる)×話題(体言・かたつむり)
は「伝えたい人・物・事(名詞・代名詞)」は前に置くという英語の構造に合わないので,ブライスはこのまま変換することはできずに
A snail
Dreams a blue dream
On the back of a leaf.
(R. H. Blyth)
と三行に分けて書いたが,要するに
A snail dreams a blue dream on the back of a leaf.
という普通の英文を三つに分けたにすぎないのである.これは
事例(連体節・五月雨を集めてはやし)×話題(体言・最上川)
→最上川は五月雨を集めてはやい
と同類である.その後,日本で暮らすようになってから,ブライスは俳句の英訳に工夫を加える.たとえば,
かれ朶(えだ)に烏のとまりけり・秋の暮(芭蕉)
を
On a withered branch,
A crow perched,
In the autumn evening.
と訳している.これは体言止めの「秋の暮れ」(話題)を「秋の暮れ(∧に)」(時の副詞句)に変えて,全体を英語の情報構造にしたものである.しかし,1982年に出した HAIKU の第三巻では,同じ句を
Autumn evening;
A crow perched
On a withered bough.
と訳して,perched は過去分詞であると脚注まで付けている.これは俳句の「切れ」に理解を示している英訳であるが,日本語の「体言止めの構造(事例(連体節)×話題(体言)」はなんともしがたく,「伝えたい人・物・事(名詞・代名詞)」は前に置くという構造に変えて
話題(An autumn evening;)×事例(a crow perched on a withered bough.)
と工夫したのであるが,これでは元のイメージ提示の順序である「事例(かれ朶に烏のとまりけり)×話題(秋の暮)」は壊れている.
2.日本語の詩行(俳句)と英語の詩行の構造上の相違
日本語も英語も情報の伝達には「名詞」と「動詞」を使う.この二つは「主部(名詞)+述部(動詞)の形で使われるが,詩行を創る時,英語は「伝えたい人・物・事(S/O)+事例(E)」という形で使い,日本語では「伝えたい人・物・事(T)×事例(E)」という形で使う.使う要素は「伝えたい人・物・事」と「事例」で同じであるが,組み合わせ方と内容が英語と日本語とでは異なる.
2-1 英語の詩行の場合
英語では俳句と異なって,一行で詩が終わることなく,詩行は幾行かにわたって創られるのであるが,詩行の中心構造は「未知なるS/O+既知なるE」の組み合わせである.たとえば,
nw S/ O: + knwn E (= knwn rcgntn) : (=) nw rcgntn
My heart is like a singing bird. (merrily )
My love is like a red, red rose. (wild but beautiful)
You are a tulip seen today. (sweet and pretty)
Shall I compare thee to a summer’ s day? (lovely and temperate)
のように.いずれも詩の中の一行であるが,最初と二番目は有名な「明喩 (simile) 」であり,三番目は有名な「隠喩 (metaphor) 」である.四番目の文はShakespeare のよく知られているソネットの最初の一行である.
これらの詩行の「new S/O」と「known E」の関係はいずれも「new S/O:known E = known recognition:(=) new recognition」という比例式をベースにしている.たとえば,最後の例は「(相互未了解の)あなた(new O)」は「さわやかで気持ちのよい(known recognition)」と「相互了解している「夏の日」(known E)」だ.だから「あなた」には「さわやかで気持ちのよい」を写して「さわやかで気持ちのよい(new recognition」と言えるのである.しかも,これは,「(共通認識)夏の日はさわやかできもちがよい」「(個人認識)あなたは夏の日だ」したがって「(結論)あなたはさわやかで気持ちがよい」という「三段論法」に則っている.詩人の仕事 (creation) は共通認識に基づく大前提から妥当な結論を導く個人認識(new S/O=known E)(小前提=詩行)を発見して新たな認識 (new recognition) を加えることである.
このように,英語の詩行は「未了解の人・物・事=了解の事例」で論理的かつ心理的に納得させるものの組み合わせであるが,詩人は自分の創った詩行(事例の組み合わせ)に不安を感じると,時には,その行あるいはその前後に「形容詞,副詞あるいは形容詞派生の名詞」をガイドとして配置する.たとえば,
Out, out, brief candle! Life’s but a walking shadow.
She walks in beauty, like the night/ Of cloudless climes and starry skies,/ And all that’s best of dark and bright/ Meet in her aspect and her eyes.
Though nothing can bring back the hour of splendor in the grass,/ of glory in the flower, we will grieve not.
などのように.
2-2 俳句の場合
日本語の俳句では,英語に変換しやすい「new S/O+known E(V+その他)」の他に,英語にはない,したがって,英語には変換しにくい日本語独特の情報構造「話題T×事例E」「話題T×事例E(主部S+述部P)」「連体修飾節+体言」を組み合わせた「「話題T×事例E(連体修飾節+体言」と「事例E(連体修飾節)×話題T(体言)の変型」が句(詩行)の形として多く使われる.
冬の日や・馬上に氷る影法師(芭蕉)
古池や・蛙飛び込む水の音(芭蕉)
この道や・行く人なしに秋の暮れ(芭蕉)
菜の花や・月は東に日は西に(蕪村)
秋の夜や・旅の男の針仕事(一茶)
閑かさや・岩にしみ入る蝉の声(芭蕉)
風が吹く・仏来給ふけはひあり(虚子)
菊の香や・ならには古き仏達(芭蕉)
朝がほや・一輪深き淵の色(蕪村)
かれ朶(えだ)に烏のとまりけり・秋の暮(芭蕉)
さまざまの事おもひ出す・桜かな(芭蕉)
田一枚植えて立去る・柳かな(芭蕉)
柿食えば鐘が鳴るなり・法隆寺(子規)
番傘の軽さ明るさ・薔薇の雨(汀女)
ふところに乳房ある憂さ・梅雨長き(桂 信子)
ゆるやかに着てひとと逢う・蛍の夜(桂 信子)
これらの俳句は,組み合わせは英語と同様に「比例式」と「三段論法」を基にしているが,「話題T」と「事例E」が英語の詩行と異なって,どちらも個々には「了解共感(commonly accepted) の話題(人・物・事)」と「了解共感 (commonly accepted) の事例」であり,英語の比喩構造の「new S/ O: known E = known recognition: (=) new recognition」ではなく「了解共感話題 (commonly accepted T) :了解共感事例(commonly accepted E) = 了解共感認識 (common recognition): 了解共感認識 (common recognition) ・統合認識 (integrated recognition) 」であるが,たとえば,
accptd T :accptd E = accptd rcgntn : accptd rcgntn → intgrtd rcgntn
秋の夜や 旅の男の針仕事 ? ? ?
のように,二つの「相互了解認識(accepted recognition)」と「統合認識 (integrated recognition) は「余白(blank space)」であって,すべて読み手の感性に任されるのである.したがって,ある人は,この句が四国行脚で松山市の三津浜で読まれた一茶の句と知っていて,
T(秋の夜):E(旅の男の針仕事)=(暗く冷たい):(侘びしい)→(かわいそう)
と感じるかもしれない.しかし,ある人は
T(秋の夜):E(旅の男の針仕事)=(静かな夜):(なかなかだ)→(えらい)
と感じるかもしれない.「余白(?)」に何を埋めるかは「表層解読者」(読み手)の勝手である.私は黒いブレザーと黒いズボンに赤いダンヒルのタートルネックのセーターを着ていた.ダンヒルの赤は「大人の赤」で気に入って着ているうちに肘に穴があいた.イクがそこに黒い皮を当てて,同じ明度の赤い糸で繕ってくれた.今年,取り出して着てみたら,右肘の皮の糸が切れてしまっていた.服のボタン付けとかお裁縫にかかわることは,御殿場の洋装店サロン・ド・ココに頼むのであるが,何だか自分で直したいと感じた.秋の夜,人生という旅で置いてきぼりになった男が,切れた電球をセーターの腕に差し込んで一針一針縫う.「秋の夜や残り男の針仕事」.そう,終戦後,物がないとき,母が親父の靴下の穴を電球を当てて毛糸で繕っていた.物はなかったが,あれは貧しい絵ではなかった.暖かい絵であり,出来上がったツギは美しかった.私の「余白」には「美しさ・かなしさ・なつかしさ・さびしさ」などいろいろな想いがこもっている.俳句の面白いところは「余白」に様々な想いを込めて勝手読み(読者語創作)できることである.
3.英語の詩行と日本語の俳句の生成への手がかり
英語の詩行は
「共感未了解S/O」:「共感了解E」=共感了解認識:→新共感認識
の関係になるように「共感未了解S/O」に対して無意識の共通感覚で捉えることのできる「共感了解事例E」を論理的構造に配置して「共感了解事例Eに付随する共感了解認識」を「共感未了解S/O」に写して「新しい共感認識」を加える技巧に基づいて創られる.たとえば,ロマン派は美とか真理は永遠不滅のものと考えるが,中にはへそ曲がりがいて「いや,美も真も生きている人間の記憶にある間は生きているが,忘れられて消滅する」という共感未了解のことを共感させようと思ったとする.教会の裏に行くと,訪れる人のなくなった墓碑板が積んである.墓地には苔が名前を覆って読めなくなった墓石があちこちに立っている.人間という神様の被造物は死ぬ運命にあることは皆了解している.その死は人の記憶がら消えることによって完全に消滅する.美とか真とかは死ぬ運命にある人間の被造物である.人間と有限性の関係は真善美の有限性に写すことができる.「被造物は死ぬべき運命にある」(共通認識)という大前提に「美も真も被造物である」(個人認識)という小前提をたてると「美も真も死ぬ運命にある(=永遠ではない)」(結論)という結論を導き出すことができる.詩人の仕事は共通認識に基づく大前提から妥当な新しい結論を導く個人認識「S/O=E」(小前提=詩行)を創造することである.19世紀アメリカの詩人エミリー・ディッキンソンはこのような推論に基づいて次のような詩行を創った.
I died for Beauty—but was scarce 私は「美」のために死んだ―が,ほどなく
Adjusted in the Tomb 墓の中に葬りおさめられると
When one who died for Truth, was lain 「真理」のために死んだ者が横たえられた
In an adjoining Room— 隣の部屋に―
He questioned softly “Why I failed?” 彼はそっと訊いた「なぜここにいるの?」と.
“For beauty”, I replied— 「美のために」と私は答えた―
“And I—for truth—Themselves are One— 「僕は―真理のためだ―二つは一つだ―
We Brethren, are”, He said— 僕たちは同胞だ」と彼は言った―
And so, as Kinsmen, met a Night— そこで,同族として夜の闇を迎えた―
We talked between the Rooms— 私たちは部屋を隔てて語り合った―
Until the Moss had reached our lips— 苔が二人の唇まで届いて
And covered up—our names— 二人の名前を―覆い隠すまで―
-- Emily Dickinson
詩は三つのスタンザから出来ているが,日本人の私には理屈っぽく饒舌に感じられる.イメージの核になるところを俳句的に空間「間(ま)」を加えると,次の通りである.
I died for Beauty—but was scarce 私は「美」のために死んだ―が,ほどなく
Adjusted in the Tomb 墓の中に葬りおさめられると
When one who died for Truth, was lain 「真理」のために死んだ者が横たえられた
In an adjoining Room— 隣の部屋に―
We talked between the Rooms— 私たちは部屋を隔てて語り合った―
Until the Moss had reached our lips— 苔が二人の唇まで届いて
And covered up—our names— 二人りの名前を―覆い隠すまで―
一方,日本語の俳句においては
「共感了解話題 (common T) : 共感了解事例(common E) = 共感了解認識 (common recognition): 共感了解認識 (common recognition) → 統合認識 (integrated recognition) 」
という比例構造を満足させる「T×E」の組み合わせを創ればよい.気に入れば読み手が勝手に統合認識 (integrated recognition) をして納得してくれる.たとえば,外の世界に行ってみたいけれど怖くてお母さんのスカートの裾をににぎって離さなかった子が,幼稚園に入って,おそるおそる,お母さんに手を引かれて門をくぐった四月.その子が,母親の手を振り切って,五月の風の中を駆けていく.佐藤郁良は当たり前の誰でも知っていることを組み合わせて,一つの情景を描いてみせる.
母の手をふり切っていく五月かな(佐藤郁良)
俳句は,「共感了解話題 (common T) 」と「共感了解事例(common E)」を提示する発信者とそれを解読する受信者とのコラボレーションの文芸である.英語の詩より,私はいろいろ「勝手読み」ができる俳句が好きである.たぶん,日本の「俳句」は理詰めの欧米人にとっては神秘的で新鮮に感じられたのだろう.だから最短詩形としてHAIKUが定着し始めているのだ.どうも,欧米人の中には,中世から続く意志と論理の世界に疲れ果てている者もいるようだ.
★我が家の本棚に並んでいる参考に読んだ本
荒井良雄(編)『R・H・ブライスの人間像―俳句と川柳に禅を求めて―』(北星堂,東京,2006/09/15)
尾形仂(編・著) 『新編俳句の解釈と鑑賞事典』(東京,笠間書院)
Riffaterre, Michael: Semiotics of Poetry. Indiana University Press, 1978(斉藤兆史訳:『詩の記号論』東京,勁草書房,2000)
永田龍太郎(編)『HI(HAIKU INTERNATIONAL)』(月刊,国際俳句交流協会,東京)
現代俳句協会(編)『日英対訳21世紀俳句の時空』(永田書房,東京,2008/09/25)
佐藤郁良『海図』(ふらんす堂,東京,2007/07/19)
佐藤和夫・星野恒彦・ジャック・スタム『英語でHAIKU』(株式会社ティビーエス・ブリタニカ,東京,1988/12/10)
佐藤和夫『海を越えた俳句』(丸善ライブラリー,丸善,東京,1991/05/20)
Blyth, R. H.: HAIKU vol.3 (The Hokuseido Press, Tokyo, 1982/06/30)
長谷川櫂『古池に蛙は飛び込んだか』(花神社,東京,2005/06)
長谷川櫂『一億人の俳句入門』(講談社,東京,2005/10/24)
星野恒彦(編・著)『四季の歓び 名句に英訳をそえて A. ピニングトン,星野恒彦 共訳』(銀の鈴社,鎌倉,2009/10/15)
吉村侑久代『R・H・ブライスの生涯―禅と俳句を愛して』同朋舎出版 東京 1996/06/22)