御殿場高原より 59 大人の世界
大人の世界
中学生のころ,私は飯塚市市外の桜ヶ丘というところに住んでいた.父の会社は,会社内の序列が社宅の高さに合わせてあった.桜ヶ丘の一番高いところには所長宅があり,両隣りが部長宅であった.ちょっと坂を下ると課長社宅が並んでいた.父はそのとき勤労課の課長だったので課長社宅の一番端であった.「勤労課」というのは,会社の「(事務)職員」ではなく,それ以外の「鉱員」,つまり,「労働組合員」を世話をする課である.父は会社と労働組合との年末交渉などで,会社側として最前列で労働組合に対応する課長であった.で,年末とか期末の交渉が大詰めを迎えると,組合長が夜陰に紛れて,裏口から地下足袋をぶら下げてこっそり上がって来て,父と打ち合わせをしていた.質問と回答を打ち合わせをするのである.ある時,中学生の私は父に交渉の相手同士が事前に打ち合わせるなんておかしいと言った.父は笑って,会議とか交渉とかは大体の打ち合わせをしておいて手打ちをするものなんだ.会議は,まあ儀式のようなものだ.これは二国間の首相会談でもやっているし,国会でもやっている.質問は事前に出されていて,それに対す回答を役人が作っておいて,閣僚はそれに沿って答える.そういう決まりなんだ,と.私たち中学のクラス会などでは,事前の打ち合わせなどないので,大いに紛糾した.時間を掛けて話し合って,議論を尽くして最善の策を得るという民主主義は,長年藩主や家老の判断や決済で「即断即決」に慣れてきた大人たちにとってはどうもまどろっこしいと思ったらしい.前もって準備するというのは,形だけは整えるという「大人の知恵」なのだと思い至ったが,大人ってずるいんだなと思ったし,大人の社会にはいろいろ約束事があって,元服して成人になるということは「大人の知恵を守る」と承認することなのかなと思った.
浪人したとき一年間,会社が労働組合のために用意した東京の宿泊所の三畳の空き部屋で過ごした.もう一方の三畳の部屋には,その後東大の建築科に入った禎さんがいて,文京区林町80番地から,根津神社の前を通って,二人で歩いて朝から上野の国会図書館に出かけて勉強した.この図書館の地下には薄いチャーシュー一枚とのり一枚をのせた安いラーメン屋と安い料金の理髪店があって,大変好都合であった.会社の宿舎には労働組合の幹部が長期滞在して東京の労組連合に出向していたが,その寮(会社ではこういう宿泊所を都内にいくつも持っていて寮と呼んでいた)の女中さんたちが「毎晩,ワイシャツに口紅を付けて酔って帰ってくるのよ」と噂していた.組合員から集めた組合費の一部を幹部が東京で遊興費に使っているのである.私には何だかいい加減に見えて,出来るならこういう大人にはなりたくないと思った.それが高じて,「大人の対応」などしたくない.土地に縛られず,会社に縛られず生きたいと願った.学歴とか,人脈とか,係累とか仕来りとかとは関係なく自由に生きたい.それで,筆一本で生きる自由業になりたいと思った.いいものを書けば,顔を見たことも,話をしたこともない人たちが買ってくれる.世界のどこにいても紙と万年筆があれば暮らしていける.いい記事やいい内容の本を書いて生活したいと思った.大学の入学試験の面接で,将来の希望を尋ねられたときそのようなことを言ったらしい,「君は,筆が立つのかね?」と尋ねられて困った.根津,根岸,団子坂,千駄木など,鴎外や漱石の作品に出てくる,文豪ゆかりの地の近くに住んでいながら,恥ずかしいことに,当時,人の文章に感心するばかりで,自分では文章を書くというようなことを何もしていなかったからである.釜石高校の時,早大出身の梶原先生(白秋の詩集『思ひ出』の初版本を持っていると自慢していた国語の先生)に文芸部の雑誌に何か書かないかと誘われたことはあるが,書いたのは,大学一年のときに同じクラスの上村君に誘われて同人雑誌『蒼穹』に参加してからである.その当時,『文学界』という雑誌には「同人誌批評」というコラムがあって,そこで「褒められているぞ」と仲間に言われたことがあったが,私は知識を吸収することに忙しくて人の評価などには関心を持たなかった.
大人になってみると,なかなかそうはいかないことがわかってきた.たとえば,大学院に入った春,先輩の一人が「お前,〇〇先生に挨拶に行かなかったろう」と言った.「ええ」と答えると,「みんなお前が副手になると思っていたんだぞ」と言われた.私は学部生の時に全科目の平均が96点以上で選ばれる特待生になって授業料免除になっていたので,どうもみんなそう思っていたようだった.同級生の一人が副手になっていた.たぶん,○○先生に挨拶にいったのだろう.もともとその教授とは相性が悪かった.学部時代の「英詩概論」でクラス全員21名のレポートの下書きを書いたのがバレていたのかも知れない.大学院の面接の時,何を研究したいのかと訊かれて,大学生のとき鎌倉の建長寺で座禅を組んで名前をいただいたことを話し.私は「物事を無心で見るように,文字列をありのまま読んで,無私の批評の可能性を探りたい」と答えたら,「君,文学は禅ではないよ」と笑ったので,いくらか軽蔑したのだが,それが顔か態度に出ていたのかもしれない.私は学問の世界では学生も先生もなく議論は自由と思っていたのだが,どうも学問の世界にも上下関係があるらしく,エミリー・ディッキンソンの詩の解釈をめぐってその先生の解釈を否定したりしたからか,一層疎まれて,人伝に,「俺の眼の黒いうちは,奴を教師にはしない」と言ったと聞かされていた.つまり,就職口があっても「推薦状」を書かないということらしかった.そのような私が大学の教員になれたのは,一人の先輩が心配してくれて,私に論文を書かせ,それを大学院の雑誌に載せてくれたりして陰で動いてくれたらしかった.私に代わって大人の対応をしてくれたのだ.
出版社に入って雑誌を作って,第三種の認可を受けるときにも大人の対応が必要であった.名古屋の郵政局で不認可になったので,東京では同じような雑誌が認可されていると持って行って見せた.それでも駄目だった.すると,総務部長が「まかせてください」と言うので任せたら,認可された.私には直接言わなかったが,耳に入ったのは,土地の代議士の後援会に入って一回だけ会費を60万払って頼んだ,というような話だった.私の知らないところで,大人の対応がなされていたのである.雑誌本体の執筆者の選定,体裁などの編集業務はしたが,雑誌が形を成すための,印刷所や製本所などとの技術的,金銭的打ち合わせという厄介な仕事は一括して引き受けてくれる人がいて,広告を一切入れないきれいな雑誌を11年間スムーズに刊行を続けることがら出来た.たぶん,蔭でみんなが大人の対応をしてくれていたのだろう.
私は英語がとても優れていたその創立者に大事にされて,英語を鍛えられた.二年間世話になって大学に移る時には「大学には研究日という日がある.そのときに出てきて顧問として英語科の面倒を見てくれ」と頼まれた.私は恩返しのつもりで,そこの顧問を40年務めた.そこでは言葉に関して勝手なことをさせてもらった.まだインターネットもないころ,日本語講座を開いて,短波を使って世界中に流そうとしたり,電話でネイティブスピーカーと話し合える英語会話講座を開いたり,英語主体の雑誌の中に「詩の創作講座」と作ったり,勝手なことを沢山した.私が案を出し,教材を書いたが,それを実行する様々な仕事をみんなが手伝ってくれた.どれもうまく儲からなかったのだろう.「先生のアイディアは十年早いですよ.せめて3,4年先を考えてください」と私と仕事上の優秀な部下がぼやいた.もう何枚社長に始末書を書いて出したことか,と.これもたぶん「大人の対応」だったのだろう.
この年になって,やっと,この世にはなんだかいっぱい「大人の対応」があるんだなと感じる.人も生き物なので,生きるためにいつも獲物を探し回らねければならないという行動規範から逃れることはできない.人は「今日のパンを与えるぞ」というあざとさには勝てないのだ.しかし,日本では「今日のパンを与えるぞ」とあからさまに言っては顰蹙を買う.アメリカでは言いたい放題言っても大統領になれるのに,日本では言いたい放題言うと暗黙の了解を壊す者としてすぐ責め立てられる.どうも言いたい放題の「受け止め方」がアメリカとは違うようだ.その違いが「大人の対応」の芯にあるような気がする.
私は野菜ジュースを飲みながら,今でも,朝,新聞を読み,それから8時過ぎにNHKプラスで7時の「おはよう日本」を見る.「プラス」でニュースを見るのは余計な解説を飛ばすことが出来るからである.長年「物語論」(narratology)を勉強してきたので,ニュースや解説にも「筋書き」が決まっていて,どこの局のニュースも「同一パターン」に組み立てられていることが判る.ニュースは「いつ・誰が・どこで・何をしたか」を正確に伝えればそれでいいのに,どのニュースにも必ず現地の人の声を一言加えたり.さらには,ニュースなのに「どう見てますか」と余計なコメントを解説者に求める.「仕事」と言うと抽象的になるが,人も生き物,食べ物獲得である.どうも「大人の対応」というのは,動物が獲物を探し回るのと同じように「欲の充足」のための人間の行為を,「死」を「永遠の眠り」というように,ユーフェミズムで「仕事」と言い換える知恵の集合のように思われる.最近は,誰でも自由に発信できるようになって,パターン化された大人対応のオールドメディアの情報よりも,新興のSNSの流す情報の方が生っぽくて粗野であるが故に素朴で真実ではないかと人は思ってしまうのだが,根は同じ「欲の充足」であるから,これもパターン化されて,人気を得るために平気で偽の情報を流す.しかし,民主主義では「個人」が大切であるから,個人の「欲の追求」は許される.妥当性を判断するのは個人であるから.その意味で,たとえば,「企業献金(個人のお金)の禁止より政党交付金(国民の税金)の廃止が先だろう」という萩生田氏の意見は正論だと思うのだが,野党はもちろんパターン化された思考で,民主主義の根本精神が身についていないのメディアはどこも取り上げない.与党が過半数割れで,野党と十分に時間をかけて話し合わなければ法案が通らないことは民主主義としてはいいことなのに,メディアは積極的に評価しない.「政治劇は変わらない」と諦めているのだろうか.いつの間にか頭に「政治物語パターン」が出来てしまって自由に反応できなくなっているようだ.これもたぶん「大人の対応」なのだろう.
私とイクは「極楽蜻蛉」と言われるだけあって,大人の対応など何も知らずに,ごく自然に生きたいように生きてきた.言葉好きが言葉に関係する仕事に就いて,と言うことは,したいことが仕事になって,ただ一瞬一瞬を楽しんで生きてきた.日本でこのように自由に生きてこられて,何だかみんなに助けられて,みんなに支えられて優しくしてもらったのだなとは感じている.ただ,息子の足火が急性白血病になったとき,妻のイクが急性動脈解離をしたとき,「大人の対応」をして,あちこちに伝手を求めてよりよい対応をしていたら,死なせずにすんだかな,とふと思って,世知に疎かったことが,とても悲しくなる時がある.しかし,世知に従うということはイクにも私にも頭にはなかった.「すまない.オオ僕もいよいよの時には余計なことをせず,自然に任せるからな」と,先に逝った足火とイクを心の底で懐かしがりながらその時が来るのを静かに待つことにしている.御殿場の空・風・光が,そしてキリスト教徒の集団の慎ましやかさが気に入り,本を読み音楽を聴き庭に花を植えて静かに暮らしてきた.今住んでいるここの隣り近所も子育てが終わり,老夫婦ばかりになった.マキさんが「ここは静かですね」と言う.部屋を閉め切っておくと,外の音は全く聞こえない.窓から明るい空や富士山や木立が見えるだけである.
歴史学者の阿部謹也は,日本は欧米と異なって,「社会」ではなく「世間」に生きている.一方,西欧の社会はあくまで一人ひとりが形作るもので,社会のあり方は個人の意思で決まる,と言った.日本は「世間」というものが何となくそこにあって,人々を縛っていると言うのである.言い換えると,西洋は独り一人のcommon sense(共通の現実感覚)が,日本はなんとなくそこにある「世間」が,社会の基盤になっているのだ.多分.これが日本の「大人の対応」の底にあるのだろう.