御殿場高原より 50 私のnote:現代の「いしぶみ」
私のnote:現代の「いしぶみ」
noteの創設者は編集者だったと何かで知った.「ああ,言葉とか文字とかが好きな人だったのか」と思った.算数は「丙」だが国語はいつも「甲」だったという母親の影響を受けたのか,私も言葉や文字が好きであった.百人一首は母から小学生のころ教わった.当時の女性には珍しく,若い頃日本中の山に登っていた母は大きな景色が好きらしく,「わたの原こぎ出でてみれば久方の雲ゐにまがふ沖つ白波」が雄大でいいと言っていた.母の影響で,私は発話と同時に消えていく言葉,その動きを止める文字に関心を持った.だから,中学生のころから選択科目はずっと「書道」であった.書道の先生は端正な欧陽詢や王羲之を手本に字を学べと言ったが,私はおおらかな顔真卿の字が好きだった.
私が中学生になるころは,志願して入試で選ばれた者が進学して4年ないし5年勉強する旧制中学と小学校を卒業した者が全員進学して三年間勉強する新制中学の変わり目であった.小学校5年の時,いつから新学区制に変わるかわからず,旧制中学の入試に備えて「鶴亀算」とか「旅人算」などの参考書を開いた記憶がある.学区制はその年の春から始まったので,私は新制中学の第2期生である.今では考えられないことであろうが,当時の新制中学の教科書には旧制中学の影響が色濃く残っていて,中学三年の国語の教科書には漢詩や漢文が載っていた.
床前看月光 (床前月光を看る)
疑是地上霜 (疑うらくは是地上の霜かと)
挙頭望山月 (頭を挙げて山月を望み)
低頭思故郷 (頭を低れて故郷を思う)
李白の『静夜思』である.母は井伏鱒二の訳がいいと言って「寝間の内からふと気が付けば,霜かと思ういい月明り,軒端の月を見るにつけ,在所のことが気にかかる」を教えてくれた.漢文は
北冥有魚,其名曰鯤.鯤之大,不知其幾千里也.化而為鳥,其名為鵬,鵬之背,不知其幾千里也(北溟に魚あり,その名飽と言う,飽の大幾千里なるか知らざるなり.化して鵬となす.鵬の背幾千なすを知らざるなり)
が載っていた.荘子の文である.そのスケールの大きさにあっけにとられた.3年生の教科書に載っていて,今でも覚えているのは金田一京助の「心の小径」という随筆である.樺太(今のサハリン)のアイヌ集落に出かけて北海道アイヌとの言葉の違いを収集する話だった.アイヌの大人たちは遠巻きにするだけだったが,子供たちは近づいて来るので,鼻を指さすと,子供たちは一斉に「ヘモイチャラ」と言って笑うので,次に口,それから耳,と指していく.子どもたちはゲームでもするかのように嬉々として答える.遠巻きにしていた大人たちも近づいて来て,言葉の収集を始めたという話である.随筆の最後は「ことばは心の城壁に通じる唯一の小径である」と結ばれていた.この文は私の心に住み着いて,私の「英文法」や「勝手読み」の基礎になっている.
中学生の教科書に漢詩・漢文が入っていたのは,旧制中学の教育理念が踏襲されていたのだろう.戦前の日本の教育は小学校が基礎教育で,高等小学校がプラスα,旧制中学は国民公教育の最高点だったのだ,旧制高校・旧制大学は好奇心旺盛の勉強好きの,あるいは立身出世を目指す郷・村・町の秀才のための特別な教育機関であった.戦争には負けたが,時の政府関係者は,たぶん,国民の質は落としたくなかったのだろう.旧制中学のレベルを維持したかったのだ.
そのころの学校教育は中学卒業で大人になることを目指していたと思う.現在の中学より背伸びをしていた.今の先生たちは中学生だけでなく高校生までも「子供たちは・・・」と呼ぶが,昔は,中学生は「大人」扱いであり,当人たちも「大人の意識」を持っていた.私は中学生の時に,父と母が読み競っていたロジェ・マルタン・デュ・ガールの『チボー家の人々』(山内義雄訳)や谷崎潤一郎の『源氏物語』を読んだ.ルーマニアの作家コンスタンチン・ゲオルギウの小説『二十五時』を読んだのも中学生の時である.
私にとって言葉は動くものをとどめ置く表象であり,感性でとらえる美であった.
「ヨーコです.まだお仕事中?」「おお!どうした」「元気にしています」
"Do you love me?" "Yes." "Really?" "Yes, completely!"
やがて森が切れ海が見えてきた.黒っぽい荒れ海だが,水平線のあたりから白い帯が伸びて,川のように蛇行しつつ間近まで来ていた.
「あれ,何かしら」
「流氷だ」
「あれが,そうなの.初めて見る」和香子は窓ガラスに額をつけて目を凝らした.
(加賀乙彦:湿原)
I lived when I was young at the end of a long road, or a road that seemed long to me. Back behind me, as I walked home from primary school, and then from hight school, was the real town with its activity and its sidewalks and its streetlights for after dark.
(Alice Munro: Dear Life)
どの文もいい.日本語でも英語でも,言葉の組み合わせに触れると情景まで眼に浮かび,楽しかった.一瞬に消えていく言葉の組み合わせに,人は心を読み,喜んだり悲しんだりする.こんなに神秘的で,はかなく,美しいものはないと思った.私にとって,言葉は論理に裏打ちされた文構造を持ちながら原初的な感情を伝達する媒体であり,美的に知を表す道具であった.
しかし,同時に,言葉で定着させると実態が見えなくなるという言葉の不思議に戸惑った.言葉は,人を論理的で知的に納得させて満足させてくれるが,同時に単に分析的で論理的によく考え出された説明という域をこえないことが多い.そこでは神秘的な感動は消えてしまう.
言葉は未知なるものを識別・分類してラベルを貼るのに便利である.しかし,人はものを識別・分類してラベルを貼ると,ものそのものを見ないようになる.人がものそのものの代わりに「数字」という表象で計算するように.言葉は表象になって,人はそのものに対して盲目になるのである.したがって,言葉は,物事を「固定」して「わかった気にさせる」危険性をいつも孕んでいる.何が描かれているかわからない絵の前に立つ.多くの人が何が描いてあるのだろうと考える.「考える」ということは,あれかな,これかな,と心のなかで「おしゃべり」をすることである.どうにも判らず,近寄って見ると画題に「女の顔」と書いてある.とたんに,絵の中に「女の顔」を探し,元の絵をまったく見なくなってしまう.遠くから人が歩いてくる.誰だろうと思う.誰だろうと頭の中で「おしゃべり」をして誰か判ったとたんに,もう対象を見ないで,すでに認識しているイメージを見る.同じようなことを小林秀雄が「黙ってものを見る」というエッセイで書いていた.
目をつぶってごらん.
何が見えるようになりましたか.
心の中でしょう?
目をあけてごらん.
何が見えなくなりましたか?
心の中でしょう?
目をあけたまま心を見ること,物を見て識別・分類しながら,それが宇宙の真理・体系の一部であるとわかること,これは非常にむずかしい.実際,人・物・事の本質を言葉によって,見極め,表現し,味あうことは非常に難しい.
使い古された言葉には使い古されたものがたくさん付いている.新しくできた言葉には新しい部類分けしかない.「結婚しよう」と言わないで「一緒に生きよう」と言ったら.「それって,結婚しようとうこと?」と相手が尋ねたら,相手の心には使い古されたものがたくさん付いている.そのような相手とは一緒に生きるなどやめた方がいい.
こんなに言葉が好きなのに,私には文才はない,小学校のときから作文は駄目であった.その駄目さ加減を六年の時の担任の田中正太先生はきっちり見ていた.その眼はいまでも忘れられない.それを跳ね返したくて,大学院を出てから,出版社に入り,それから教師になり,60年ほど原稿を書いたり,雑誌を編集したりして言葉に関わってきた.
それで,noteにはかなり前から登録していた.が,使わず仕舞いだった.ところが,最近は一週間か10日に一回の割合で使わせてもらっている.そして,これでちょうど50回目ということになる.
noteを使い出した直接のきっかけは,このところ,毎年,「紙の年賀状は今年で終わりにします」などと書いた年賀状を受け取っているからである.そうか,みんな年を取って郵便局にも行けなくなったのか.郵便は配達人に預けてもいいし,最近では近くのコンビニでも郵便が出せるのに.あるいは,手が震えてもう字が書けなくなったのかな,などと想像する.しかし,病院の待合室などで見ていると,かなり年配の人もスマホをいじっている.そうか,日常のやり取りはスマホのメールですますことにしたのかと思うようになった.私にとって年賀状は一年に一回「生きているか」「生きているよ」というお知らせのようなものであったのだが・・・.最近は,紙の年賀状は数枚だけである.私自身もう89歳なので,友人や知人が一人二人と自然消滅しても仕方が無いのであるが,一年に一度の近況報告も出来ないほど衰えているのかと思うと淋しい.そんなとき,ふと,昔読んだ文章を思い出した.こんな文章だった.
昔,人がまだ文字を知らなかったころ,遠くにいる恋人へ気持を伝えるのに石を使った,と聞いたことがある.
男は,自分の気持にピッタリの石を探して旅人にことずける.受け取った女は,目を閉じて掌に石を包み込む.尖った石だと,病気か気持がすさんでいるのかと心がふさぎ,丸いスベスベした石だと,息災だな,と安心した.
「いしぶみ」というのだそうだが,こんなのが復活して,「あなたを三年待ちました」と沢庵石をほうり込まれても困るけれども「いしぶみ」こそ,ラブレターのもとではないかと思う.(向田邦子「無口な手紙」)
年賀状はラブレターではないが,私にとって,その一枚一枚は「ああ,息災だな」と安心する「いしぶみ」であったのだ.イクは賢くて,電話で言葉を臨機応変に正しく使って楽しんでいたが,私はもともと即座に反応して,わくわくしたり,はしゃいだり,言い合ったりするのが不得手である.頭の回転が鈍いのである.聴覚符牒(音声)より視覚符牒(文字)を使って,時間をかけて書いたり消したりしてなんとか読めるような文を綴るのが好きである.文字の方が自分には合っている.年賀状をやめた人たちに近況報告などする必要はないが,一人暮らしを心配してくれる人たちにはまとめて近況を伝えることが出来たらいいなと思って,noteがいいのではないかと気が付いた.最初は年に一回正月にnoteを使おうと思ったのであるが,独りになった私の近況を「元気にしているよ」と定期的に弟や妹たち,甥やアメリカに住んでいる姪や教え子たちへ近況報告として,差しさわりない個人の情報を交えながら書いてnoteに投稿することにしたのである.noteは他のSNSと異なって字数制限はなさそうだし,アクセス数を競ったりしないという.その上,これなら,Microsoft Edgeに私の使っているインターネット上の名前を打ち込めば世界中どこにいてもPCやスマホで読むことができる.掌(たなごころ)に石を包み込めばなんとなく状況がつかめる「いしぶみ」ように.おかげで,妹からときどき電話やハガキでコメントが入る.近隣の人が気が付いて読んでくれている.その意味で私のnoteは現代の「いしぶみ」である.さらに,もともと字の好きな教えたがり屋の老教師なので,古来の伝統に従って,身につけた知恵を伝授しておきたいと思うようになった.ラブレターではなく,お節介な「生きる・考えるヒントとしての「いしぶみ」」みたいなものだ.
文化人類学によると,昔,集落の若者が大人になる通過儀礼(initiation)は年寄りが仕切っていた.集落の長い歴史の中で培った知恵やしきたりを年寄りが若者に伝授した.簡単に言うと,老人は先人の知恵を伝授する教師なのである.たとえば,子どもたちに刀や槍や弓矢の使って見せて,獲物の捕り方や身の守り方を教える.また,集落の外に連れ出して,自然を観察させて命とか死とかを教える.たとえば,蛙は蛇の好物である.蛙は蛇と出っくわすと動けなくなる.食べられると予感した蛙は,腹に空気をいっぱい吸い込んで膨らませて蛇の喉を通らないようにする.蛇は顎を外して,頭から蛙を飲み込もうとする.それは壮絶な生と死の教材である.現代の子供はゲームの中でバタバタと人を殺して平気であるが,昔の子供たちはそういう情景を目の当たりに見て,生の大切さと死の恐怖を知った.また,「美しすぎりものには毒があるぞ,たとえば,美しすぎる蛇,美しすぎる茸,美しすぎる花,美しすぎる女」などの知恵を授けるなど.集落の先達はそれらを知恵として伝えた.「何事にも先達はあらまほしきことなり」(徒然草)なのである.その他諸々の事を年寄りが伝授して若者たちを育てて大人の仲間入りさせた.その若者が老師を見事に超えることを「出藍の誉れ」と言って,大人たちは反逆を許した.集落での年寄りの存在価値は教育にあり,若者たちは,知恵を蓄えたスマートな年寄り,襤褸をきて打ちひしがれた年寄り,歯の欠けただらしのない年寄り・・・,いろいろな年寄りを見て,ああなりたい,ああはなりたくない,などと人生を学んだ.年寄りは存在しているだけで教育者でもある.
年寄りはお迎えが来るのを待っている暇人であるから知恵の伝道師になるべきではないか.そういう気持も含んだ「元気で生きているよ」という「現代の「いしぶみ」」を続けたいと思っている.妹や弟,甥や姪には「いしぶみ」が載らなくなったら死んだと思ってくれと言ってある.
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