御殿場高原より 56 人生100年は辛い

人生100年は辛い

 私は89歳.まだ100歳には十年ほど足りないが,住み慣れた家で,一人で暮らしている.長年の友は梢の間に見える月の写真など送ってきて,朝の挨拶メールをやりとりして安否を確かめている.月曜日にはお昼を作って待っていると,12時過ぎに看護師のマキさんが元気に現れる.話によると,21歳と22歳の年子を育てたお母さんをした人で,さぞ大忙しだったろうと思うのだが,疲れ知らずでとても若く元気である.彼女と話をしながら食事をする.これが一週間で唯一の私の食事である.マキさんは隔週の土日が休みなので,時には付き添ってもらって東京まで出かける.二月には『平家物語の夕べ』に行く予定だった.月曜日以外は朝食のほかほとんど食べないので,身体から力が抜けて駄目になった.やはり,きちんと食べて運動が必要だ.なるべく二階の寝室に置いてあるパソコンで仕事をするようにして,階段の上り下りを運動の代わりにしている.このあたりは氷点下5度くらいになる朝もあるが,暖房は音のしない電気ストーブだけ.私にはファンの音も騒音である.窓から木の枝を見るとかすかに揺れている.外は風か.だが,音はしない.テレビも点けないので家の中は静寂そのものである.朝からパソコンに向かって仕事をしている.こんな生活をしているとほとんどお金がかからない.
 ただ,老人の身体は長生きするとあちこちが摩耗して動きが鈍くなる.その上,身体ばかりでなく心も傷に疼く.長く生きると悲しみが増えるのだ.身内の死を幾度も経験しなければならなくなる.最初に父が死んだ.父はごく普通のサラリーマンであったが真面目で勤勉で,五人の子供を全員大学に通わせた.誰一人にも奨学金という負債を背負わせなかった.当時,日本の会社は株主への配当や内部留保は二の次で,働く人たちの給料・生活を第一に置いていた.収益を上げて業界一位になることよりも社員が安心して生活出来るようにすることが社会の安定に貢献することであるというような経営哲学があったように思われる.だから,社員は普通に働いていれば,子供を大学に行かせることが出来た.父は晩酌が楽しみで毎晩お銚子で1,2本飲んでいた.その酒のせいで十二指腸潰瘍にななったのだと聞かされていたが,当時は潰瘍とかガンに関する治療がそれほど進歩していなかったので本当かどうかわからない.母の話によると,死ぬ前の晩には痛くて脂汗を流して耐えたらしい.そして,ふっと痛みが消えて死んでいったそうであった.今ならモルヒネで緩和ケアをして臨終を迎えることが出来ただろうと思う.それから母が死んだ.72歳で死んだ父については,「お父ちゃんは,私に自由時間をプレゼントしてくれた」と感謝しながら暮らしていた.89歳くらいまでは一番下の弟親子と一緒に暮らしていて,車椅子による散歩には,支援施設から送られてくる車押しの人にお世話になっていたが,いつもお気に入りのハンサムな男の子に押してもらいたがったそうである.その後,八王子の丘陵に建てられた特養施設に入って死んだ.認知症のイクを10年ほど世話をしたからわかるのであるが,老人の世話は大変で,退職して無職で,世間と関わりもなく,世話をする家族もいなくて,通いのお手伝いに来てもらって,24時間自由であったから,私はイクの世話が出来たのであった.そうでなかったら,とても世話できなかったと思う.ある日,転んで立てなくなったらしく自分の寝室の床の上に丸い目をしてイクは坐っていた.傍らの細い柄の電気スタンドを支えにして立ち上がろうとしたらしく,それは倒れて電球は割れていた.また,ベッドの裾を持って立ち上がろうとしたらしく,ベットのシーツも掛け布団も引っ張られてめちゃめちゃになった中に坐っているイクを見たときには,「しっかりしてくれ」と怒鳴りたくなった.しかし,事態を何も把握できていないイクの邪気のない目はかわいく,その目は愛おしくていつまでも頭から消えない.めちゃめちゃにしたかったのではない.イクはただ起きて立ち上がりたかっただけなのだ.認知症の患者は徘徊すると言うが,徘徊とは健常者の視点の言い方で,彼らにはちゃんと行きたいところがあって,そこを目指しているのである.イクは「坂を下りていく」と言って,ときどき西に向かって歩いた.それは子ども時に過ごして,母親がいた静岡の方向である.母親はもう死んでいるが,イクの頭の中では母親はまだ生きているのである.時間の経過も交通手段もわからなくなっているのに,ただ「ママの所へ行きたい」という気持ちは健在なのだ.私が歩いているイクを見つけて,「帰ろう,おいで」と手をさしのべるとイクは黙って付いてきた.イクはどうして自分がこんなところを歩いているのかもわからないようだった.イクは,便意を感じると,すぐパンツを下ろしてしまって,シーツを汚し床を汚しながらもトイレに行って便座に坐っていた.排便・排尿はトイレでするものなんだと,まだ覚えているのが不憫だった.介護パンツは紙で出来ているから洗わないでいいんだよと何度言っても忘れて,きれい好きなイクは自分で紙の介護用パンツを洗ったりしていた.そういうイクを見て,私はいとおしかった.認知症とは,何という残酷な病気なのだろうと思った.人間であるのに人間らしく自ら振る舞うことが出来なくなるのである.私はそういうイクの身体を洗って,お風呂に入れて,きれいに身支度し直してやって,ベッドに寝かせた.私にはイクの粗相を始末する時間がたっぷりあった.イクはいつまでも私を「オオ僕」と覚えていて,夜中にも階段の手すりを手繰りながら登ってきて私の寝室のドアを開けて「下で寝るんだね」と尋ねた.一緒に降りて書斎の介護ベッドに寝かせるのだが,夜中じゅう,同じ動作を繰り返し,それに付き合ってやった.脳のどこかが繫がらないのだ.イクの世話が出来たのも,会社に出かけたり学校へ行ったりという定時に追われることがなかったからである.この国にほ介護保険という制度がある.実際にイクは要介護4と認定され,毎月十字の園からケアマネージャーが来てくれて,トイレなどの介護用品のリースなどの面倒をみてくれた.訪問看護師が来てくれて,血圧を測ったり,サーキュレーションを調べたりしてくれた,足を動かす運動をさせてくれた.歯は毎晩電動歯ブラシで磨かせていたが,十秒ほどで「終わり!」と言ってやめていたので,二分ほどじっくり歯磨きをしてもらった.中でも一番良かったのは看護師のマキさんが話し相手をしてくれたことだった.イクは「きれいな声ね」とマキさんがお気に入りで,兄の五郎ちゃんの話をしたり,姉のいさほちゃんの話をしたり,The Giving Tree(『大きな木』)をミッションスクール出のきれいな英語で全部読み聞かせたらしい.それらはすべて介護保険でまかなわれるので,たいして費用はかからなかった.それらも最大限に利用して,私はイクを慣れた自分の世界に置いてやろうとした.が,これは,普通の,定時で動かなければならない人たちで構成されている家庭では,決して出来ることではない.介護はとても大変な仕事で,私のように24時間自由の身でなければできない.母が特養施設に入ってしばらく経って,そろそろ終末を迎えなければならないと思われるころ,死ぬ前に見舞いに行った.母は目を向けて私を見たが,起き上がることもできず,もう私を認識出来ているとは思えなかった.ただ,腕に刺されている点滴の針が気になるらしく,しきりにそのあたりを掻く仕草をしていた.特養施設は大きな何階建てかのビルだった.各階の各部屋にびっしりベットが置かれていて,ただ死を待つ人々がベッドに上を向いて寝かされて並んでいるのを見て,私はショックを受けた.映画やテレビドラマで見るような臨終の場面は絵になるように仕組んだ幻想なんだと思った.このような特養の臨終場面をテレビでは決して見せない.誰も見たくないから.私たちには,現実を「前もって描いたストーリー」に纏めて見せるのである.人間の脳には限界を超えた現実の事態を避ける機能がある.それが番組にも作用している.日本ほどテレビでお笑い芸人が活躍している国はない.現実の貧しさ苦しさを忘れるために「笑わせる・笑って誤魔化す」のだ.そんなことはみんな感じている.が,現実を直視するのは怖いのである.それから,上の弟が死んだ.彼は大人になってから喘息が発症した.彼の車に一度乗ったことがあるが,酸素吸入器が積んであった.大人になって発症した喘息は厄介で,いろいろ病状を抑える薬を使う内に肺がその薬で傷んでしまうのだそうで,高知だったかの人里離れた療養施設で,森から出てくる野生の狸に餌付けをしたりして過ごしていたそうだが,病院側のちょっとしたミスであっけなく死んだ.ちょうど京都でロケ中だったという末の弟が弔ったと聞いた.それから息子の足火が急性白血病になって,骨髄移植をしたが,急変して八カ月の入院治療もむなしく死んだ.私は日赤医療センターの医療システムを理性的には肯定しているのだが,感情的には他に手はなかったのだろうかと悔やんでいる.彼は,入院している病棟は治療で免疫の低下した人たちばかりの特別なところなので,外から人が入らない方がいいと言い.見舞いに来ないでほしいと言ってきて,彼とはパソコンでやり取りをしたが,死後,そのパソコンを受け取ってみたら「万一の場合」の手順が細かく書いてあった.それから,認知症の妻のイクが大動脈解離で一瞬で意識を失って死んだ.私は病気に対して人間は何と無力なのだろうと思った.父と母と上の弟の弔いは,すべて末の弟がしてくれた.長男の私は何もしなかった.この弟には何らかの形でそれに報いなければならない.足火とイク(郁)は私が弔った.私はどうしても「ご愁傷様です」という決まり文句を受け入れることができない.言われてもどう返していいかわからない.だから,足火と郁の死を身内には知らせたが,隣近所には知らせていない.ただ,郁のお骨を抱えて帰って来たときに,散歩中の近所の老夫婦に出会ってしまって,彼らは私が抱いている箱を察して「いい奥さんでしたが・・・」と言って静かに手を合わせてくれた.その無口な祈りはうれしかった.足火が死んだときも,郁が死んだときも私は誰とも口をききたくなかったので,これはいいお別れの挨拶に感じられた.葬式で駄弁ったり笑いながら飲んだり食べたりするのは,昔ながらの習慣で,今を生きている私には耐えられない行事である.そして,私は残されて一人で生きていかなければならなくなった.
 何年か前に心筋梗塞で入院したので,今日は循環器科の定期診療に出かける.その一週間後には糖尿病科で定期診断を受ける.心臓の病気持ちなので,運がよければイクのようにぽっくり死ねるかもしれないが,もしずるずる入退院など繰り返すことになったらどうしようと思う.足火に倣って「死後の指示」は末の弟宛にきちんと箇条書きにしてある.まだ,する仕事があって,好奇心旺盛なのだが,ふっとむなしさを感じる.足火もいない,イクもいない.もういい,と,ぼうっと窓から外を眺めてしまう.
 年を重ねると,また悲しい記憶がふえるだろう.こういう状態でも,みんなは100年生きたいのだろうかと考えてしまう.一人で朝食の支度をして,パソコンのデスクで新聞を読みながら食べる.使うお皿はゆで卵用に一枚,イチゴ用に一枚,カップはヨーグルト用に一個.これが,365日続いて,更に10年続く.最近はそれも面倒になって,週一回月曜日に看護師のマキさんと食べるお昼だけが食事らしい食事となっている.みんなこういう100年に耐えられるのだろうか.こういう生活は異常だと感じられなくなるほど呆けて自己中心的になるのだろうか.こんなことを考えながら私はあと10年ずるずると生きていくのだろうか.百歳以上生きた医者がいた.女流書家がいた.女流日本画家がいた.みんな,死ぬまでそれぞれ仕事をしていた.私にも「日本語から英語への高度翻訳技法の資料づくり」という仕事がある.マキさんに付き添いをお願いして,研究会に出かけたり,知り合いからの誘いのコンサートに出かけたりしている.しかし,その時の動作のおぼつかないこと,ちょとした段差にも苦労する.いつもの机で仕事をしながら百歳になって,ある日,万年筆を持ったまま机に突っ伏して死んでいた,というような幸運が訪れるだろうか.いや,そんなに長くは生きないだろう.時々,心臓のあたりが痛むから.イクのように,ぽっくり死ねるかな.
 今日はまた一つ診療科が増えた.前立腺肥大で尿が出にくくなってカテーテルを挿入することになった.薬で肥大を抑えられたら,カテーテルは一か月後に抜くそうであるが,しばらく不自由・不愉快に暮らさなければならない.65歳まで医者にかかったことない私でさえこの様だ.人生100年とは,こういうことなのだ.医師自身が望んでいる現代の死に方で最もいい死に方は緩和ケアを受けながら自宅で眠るように死ぬことだそうである.それが出来るなら,私もそうして死にたいと願う.

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