御殿場高原より 49 浮いたか瓢箪,極楽蜻蛉
浮いたか瓢箪,極楽蜻蛉
この前の月曜日,看護師と昼食のとき,お産のときには仕事を辞めて「貯金を下ろしながら生活した」という話が出た.ああ,貯金といういう言葉があったと思った.しかし,イクも私も「貯金」という言葉を生涯使ったことがなかったし,実際「貯金する」など考えたこともなかった.二人とも健康であったし,贅沢をしたいなどと思ったことがない.入ってくるお金を上手に使い切ればいいという生活であった.たとえば,私が買うワインは一本千円から2千円くらいである.ワイン専門店のカタログを見ると一本500万円などと出ている.ワインの味のわかる人は飲んでみたいだろうなと思う.しかし,私には飲んでも区別できないだろうと思う.だから,買ったら無駄な出費ということになる.おいしいものを食べるのは好きだ.それはおいしいとわかるからである.一緒に食べる連れがあるときには京橋の「シェ・イノ」とか,日本橋の「ゆかり」とかに予約を入れて食べる.イクと京都に行った時には,八坂神社前の通りの「千花」のカウンターで,前に大旦那と板前二人とお椀係,後ろに見習い板前二人に囲まれながらお昼を食べた.学会や研究会の時には河原町の「露庵」で夕食をした.ここでは板前二人の手さばきを幾人もの見習いが見学する.たしか,「ゆかり」の板前もここで修行している.材料が厳選されて,いい腕で調理されて,おいしい.しかし,これらは年に一度か二度で,普段は家でワンプレートの食事を楽しんでいた.
私が東京で日帰りの仕事をするとき,イクは「イクも行く」と言ってついてきて,京王デパートの輸入生地屋の「タカトミ・エレガンス」で生地を買った.日本がバブルの時に仕入れられた一着120万とか100万とかの生地が売れ残って,イクが買えるほどの値段で売られていた.その中からイクは美しいものを選んで,生地を切らずに画家が喜ぶような布の使い方で,イクしか着れない服を作って楽しんでいた.イクは無駄にお金を使わない賢い人であった.
病気になったらどうすか.貯金は必要かもしれない.しかし,イクもオオ僕も足火も病気をしなかった.私が病院のお世話になったのは,65歳すぎて,信号が見難くくなり,眼鏡を替えに眼鏡屋に行ったら,眼鏡では補正できない,病院へ行った方がいい,と言われて診察を受けてからである.糖尿病による眼底出血がひどいと言われて,東京女子医科大学の糖尿病眼科で主任教授によりレーザー治療を受けたが,保険で賄われて,特別な出費はなかった.イクが認知症で要介護2と判定されてから,一週おきに往診してもらうようにしたが,これは医者にかかっていない状態で自宅で死ぬと,場合によっては行政解剖に回されるので,それを避けるためであった.イクも年に二回ほど脳神経の病院に行ったが,現在認知症を治す方法も薬もないので,ただMRIで脳の状態を眺めるだけであった.それから,週に一回訪問看護師に来てもらったが,費用は介護保険から出た.私が病院に行っている間にイクは外に出て転んで頭から血を流した.近所の人たちが救急車を呼んでくれて,病院に運ばれることがあったが,後期高齢者保険とかで処理された.外国と比べると,医療の面では日本は非常に恵まれている.昔イギリスでは「揺り籠から墓場まで」と言われたが,現在では,たとえば,大学病院fなどでは,予約してから何日も待たされる.日本の方が「揺り籠から墓場まで」に近いと思う.
私は医療の費用は貯金ではなく医療保険とかがん保険の方に比重をおいていた.保険というのは皆が少しずつ出し合って,必要な人が必要な額を受け取る日本古来の「講」と同じで,「相互扶助」という人間の知恵である.私は人間が長い歴史の中で培った知恵を大事にする.ほうれん草のお浸しにはオカカを乗せるとか,納豆は小ネギとのりを加えてよくかき混ぜるとか,現代の薬学・栄養学の分析でも見事としかい言い様のない日本人の知恵である.だから保険も困った時の「相互扶助」として利用する.家の庭木が倒れて他人に損害を与えた場合に備えて,最高で1億5千万出せる個人賠償保険にも入っている.運よくその必要がなく掛け捨てで一生が終われば,それは誰か必要な人の役に立つことになるので,それはそれで幸せと考えている.それで,がん保険のアフラックが日本に入ってくると同時に,がんに備えてその保険に入った.がんで死ぬときには,広い一人部屋で緩和ケアを受けながら本を読んだり,マーラーの交響曲第4番の,20世紀に作られた最も美しい旋律を聴いているうちに眠るように死にたい,また死なせたいと思ったので,入院費が一日6万円出るような契約で終身のがん保険(+医療保険)に家族で入っていた.おかげで,私が心筋梗塞で21日間入院した時にも,認知症のイクを独りで家に置いておくことは出来ないし,行ったこともないグループホームなどに預けるわけにはいかないので,私は一人部屋に入り,イク用に補助ベッドを入れて貰って,イクを付添人として登録して食事付きでそばに寝かせた.このように,貯金ではなく保険で一応病気の時の準備は整えていた.
生活の面では,65歳の定年まで働ければ年金がもらえるので,65歳までは家族のために万一に備えて生命保険に入っていた.65歳以降は,買うものもほとんどなくなるだろうし,老年になるのだから日常の食費も少なくなるだろう,であれば,年金の範囲内でほぼ今まで通り,庭のお手伝い,掃除洗濯のお手伝いに来てもらう生活ができるだろうという予測である.仮に病院で高額の支払いがあっても,日本では,一定以上の高額医療費には払い戻しがあるので,なんとかなるのではないか.予想される特別の出費は家の補修費(水回り,外壁,屋根)と,やむを得ず保険以外の薬を使う時くらいであろう.とすると,退職金を大事にして,他に年に60万円ほど,株や何かで補えば現役の時とほぼ同じ生活を続けることができると考えていたので,若いころから「貯金」は考えもしなかった.家も何歳になったら建てようというような計画があったわけではない.建てるきっかけは,たまたま,40代に入ったある年に,原稿料と印税がまとまって入ったので頭金が出来て,残りはローンにして・・・というものであった.
今住んでいるところは海抜600メートルほどで海からは遠いので津波の心配はない.高いところなので洪水の心配もない.山が迫っている場所ではないので山崩れはない.心配は地震であるが,家は耐震建築にしてある.富士山の火山灰がたまっている土地なので地盤が悪い.現在の日本の建築法では土台と家をボルトでつながないと建築が認められない.しかし,地震国の日本の古い家屋は土台に柱を立てて家をのせた.地震があると,土台とずれたりするが,倒壊はしなかった.でなければ,五重塔などとっくに倒れている.建築にも古来の知恵が集積されているのである.が,現代では昔ほど重みのある木材を釘一本使わずに組み上げることが出来なくなったし,安く早く家を作り,かつ安全を目指したから土台に家をボルトで結んだのである.それで,地震でも土台ごと家が揺れて倒壊しないように,ビルと同じベタ基礎にして建てた.
ここでの最大の自然災害は富士山の噴火である.3月11日の地震の時,私は六本木の高層ビルの21階で研究会に出席していた.それで地下鉄も止まり,小田急線も止まって帰宅難民となって東京都庁の避難所で段ボールを渡された経験がある.そのとき,イクは段ボールの囲いなど嫌がるだろうなと思った.親戚とか自分の土地と家があれば避難所に行くことはないと思った.どんなときにもイクはきれいに快適に過ごさせてやりたい.それで,富士山が噴火した時には自分たちの土地で生活させようと準備した.箱根外輪山のふもとの昔住んでいた二の岡壮の近くに,林がきれいだからと買った土地がある.近くには知り合った農家や店もある.水と食べ物は何とかなる.燃料用アルコールでお湯も沸かせるし,ご飯も焚けるように,キャンプ用品は車庫にまとめてある.車にはシガーライターのところから電源をとって使える車載用の冷蔵庫はいつも積んである.パソコンの電源もとれるようにしてある.車は「軽貨物」なので,後ろの座席を倒せば足を伸ばして寝ることも出来る.
このように,将来の不安に対して全くの無策ということではなかった.私は病気・災害を予測して,一応手を打って生活していた.イクにはどんな時でも,ごく普通に生活をさせたかった.足火が5歳のとき,ズボンの膝のかぎ裂きにきれいにイクはパッチを当てた.それをはきながら「母様,うちは貧乏なんだね」と足火は言ったが,イクの美学では,ほころびたり,破れたりしたものを,そのまま放って置くことが汚く貧しいのであった.イクにとって,「美しいパッチは美しい」のである.私にとって,病気・災害を予測して手を打つことは「美しいパッチ」であった.ただ,必死に準備をしているなとか,準備万端整って悦に入っているなとか,人の目に目立つのは野暮の骨頂で私の美意識に反する.私の「パッチ」は,さりげなく準備万端整えておいて,どんなときにもイクの日常が保てるようにしてやることだった.
普通は,テレビのドラマのようにもっと賑々しく貯金をしたり,もっと計画的に生活したりするというのであろう.私たちは健康だったから,いつも元気で機嫌良く,外から見ると,なんとも苦労知らずで,無策で気楽に生活しているように見えたのだろう.仏文科に学士入学したイクが知り合った友達のしっかり者のお金持ちのお母さんは,イクと私の生活ぶりを評して「浮いたか瓢箪,極楽蜻蛉」と皮肉った.ああ,いい評言だ,目立たずうまくやっている証だと密かに安心した.が,重要なことは,そのころの日本の多くの人は,人並みに働けばお金が入って,その範囲内で,その気になれば,私たちのように病気や災害に対応した生活をすることができたということだ.
人間は動物なので生物的束縛(飲む・食べる・排泄する)から逃れることは出来ない.これが十分に充足されないと,人間も「獣」になる.だから,動物であることをむき出しにしないで済むような,つまり,人間として「健康で文化的な」生き方が出来るような状況,「極楽蜻蛉」と言われる生活が出来るような社会であることが重要なのだ.男と女が出会って,ごく普通に一緒に暮らし,子供を生んで,それぞれ生物的特性を十分に生かしながら育て慈しむことができるのがまともな人間の社会である.私たちが生きた「昭和」は,それに近い社会だったと思う.若者は惚れた者同士が結婚し子供を持つのは当たり前であった.若い夫婦でも安心してローンを組んで車を買ったり,家を作ったり,海外に旅行したりすることが出来た.確かな腕があれば生活ができたから,街には自営業がたくさんあった.鉄工所があり,自分のデザインした門扉を作ってもらうことができた.美しいと思った石ころを拾って銀職人のところに持っていけば世界に一つの自分だけの指輪を作ることが出来た.街にはお菓子屋があり,金物屋があり,本屋があり,唐揚げ屋があり,電気屋があり,肉屋があり,八百屋があった.会社は社宅を持ち,グラウンドを持ち,山小屋を持ち,海の家を持っていた.収益は社員への支払い・厚生・福祉に使われた.みんな元気で,お祭りも賑やかであった.みんな「極楽蜻蛉」で過ごせた.
生活に「規範」など無かった.イクと私の生活は結婚式もせず,長持ちも箪笥もなく,「幾つかの食器と振り子の付いた古時計とポンプ式の古い石油ストーブと絹の布団」と「出版社からもらう1万7000円の月給」で始まった.イクは末っ子の素直さで,ただオオ僕と一緒に過ごしたかったのだと感じる.そして,それが出来る時代であった.月給「一万七千円」,少ないようだが,当時はこれが出版社が大学出(私はまだ大学院生だった)の正社員に払う給料で,それで,普通の生活が出来た.その頃の日本人の意識には「グローバルスタンダード」などなかった.
人並みの能力があれば,それなりの仕事はどこにでもあり,就職すれば,正社員ということであり,正社員であればローンを組むことは当然出来て,継続して働けば,定年後に年金がもらえるのは当たり前であった.だから,「貯金」は,「老後の生活費」のためではなく,何かちょっと高額な買い物をするための「楽しい貯蓄」であった.私たちは健康で,高額な買い物などなかったので「貯金」をしなかった.昭和の「極楽蜻蛉」だったのである.
「昭和」は右肩上がりの時代だったので,それから10年経たない内に大学出の初任給は19万円ほどになった.しかし,それからもう50年以上経ったのに,大学出の初任給は21,2万円ほどである.引かれる料金が増える一方なのに.いかに社員への待遇が停滞しているかわかる.現在,正社員で平均年収が500万円ほど,労働人口の六割を占めるようになった非正規社員の年収は300万円ほどだという.これでは,結婚もできないし,仮に結婚しても子供を産み育てることは難しい.会社はいつのまにか,利益を社員に分配するのではなく,「価値のある会社」というグローバルスタンダードを意識して,社内留保と株主への分配のために使っている.そのために社員を働かせるようになった.「世界並み」とか,「先進国」とか「大国」を意識した見栄の社会には「極楽蜻蛉」は生まれない.
大人の「世界的評価好み」を反映してか,子供の心にも「枠」が出来て狭くなって,はみ出すと「いじめ」をする.他人への心遣いや思いやりが欠けている.見て見ないふりをしてあげることができなくなっている.私も今だったらい「みんなと違う貧乏人」としていじめられたのだろうか.
昔はのんびりしていた.父親の給料は25日なので,中学生のころ,20日ごろ学校で何かの集金があると先生に26日まで待ってもらった.見て見ないふりをしない子も中にはいた.ある寒い冬の日に,母親の黒いブレザーを着ていったら,男の生徒の一人が「女物を着ている」とからかったが,誰もそれに乗らなかった.そんなことを判別できる男の子もいるんだと驚いただけだった.一年の時に買った人絹の学生服を3年間着た.人絹は皺は消えないし,着古すとテカテカ光る.私は気にならなかったが,妹が見かねたのか母親に何とかしてやってと言ったらしい.「玲ちゃんが,何とかしてと言ったけど,あんた,どうする」と母に言われた.「もうすぐ卒業からいい」と言うと,母は「そうよね」と言って,サマセット・モームの『人間の絆』を読み続けた.
高校の時にも個別が当たり前であった.私の前の席のS君は,一学期の途中から変になって「世界は三角関数だ」と叫び始めた,が,私たちはいじめなかった.欠席が続いて,夏休み中に精神病院に入院したと分かったが,だれも気にしなかった.たとえば,集合論のゲオルグ・カントールは三角法にきわめてすぐれた能力を発揮した数学者だが,自分の考えていることが果たして正しいか不安になり,最後は精神病棟で死んでいる.私たちは数学好きには変な人もいるのだと思うくらいで,S君を差別しなかった.人は個別性があってこそ正常と信じていた.異質な人を個性としてそのまま受け入れた.人間に「規範」など無かった.
大学生になると,私は東京中の大学を自分の大学のように,聞きたい講義を探しては聞きに行った.家庭教師のアルバイトをしたが,生活のためではなかった.アルバイト料をもらうと,「鈴木章治とリズム・エース」が出ているクラブを探して,『鈴懸の径』(これは立教大学の構内にあった)を聴きに行った.生き物である人間が動物と異なるのは,「群れ」としても「個」としても生きていける文化を持っていることだと信じていた.
あの頃は,人の目を気にすることもなく,人からとやかく言われることもなく,大人も子供も穏やかに伸びやかに生活できていた.昭和の時代は,個人が好きなように勝手に生きることが当たり前の時代だっと思う.周りを気にしたり,「人並み・世間並み」という基準に縛られたりする必要のない時代だった.
私は林の中で勝手に暮らしているが,朝起きて,野菜ジュースを飲みながら新聞を読んで,貧しい窮屈な時代になったなと思う.大人も子供もそれぞれ「世間並みではみ出さない」という自己規制の枠の中で生活をしないと「つまはじき」にされるのではないかと恐れながら暮らしているように見える.
私は国の力は世界基準のGDPではなく,国民の「極楽蜻蛉」の数が尺度だと思っている.「世界のランク」など追い求める後進国意識を捨てて,給付金などという施しを有り難がらないような社会に,「パッチ」を当てれば美しいという美意識で,国民が「極楽蜻蛉」になって自由に空に舞うことが出来るような社会になってほしいと思う.そして「それが豊かというものなのだ」と知って欲しいと思う.