御殿場高原より 52 季節が消えていく

季節が消えていく

 昨日,食のパラダイス「あおき」に行ったら,もうイチゴの「紅ほっぺ」が出ていた.値段は春のほぼ二倍.「紅ほっぺ」は何年か前から出ている新作イチゴで「甘さ」に「酸っぱさ」が残っていておいしい.日本の果実は,砂糖菓子ではないのに,香り,酸っぱさをなくして甘さばかりを強調して,まずい.洋ナシなど,以前は香り豊かであったが,最近はほとんど香りはなく,ただ食感が洋ナシというだけである.イギリスはリンゴしか果物は獲れない国で,街角の屋台では外国産の果物を売っている.カビがはえたものも平気で売っているが,選んで買うと,いずれも野趣に富んでいておいしい.日本では,果物の新種が続々と出てくるが,香りより甘さを競うだけになっている.その中で「紅ほっぺ」は傑作である.たしかこれは伊豆で作られたもので地元産でもある.ちょっと躊躇したのだが一箱買ってきた.それは朝食のデザートとして,へたを取って四つに切って,それに加糖練乳をかけて出すとイクがいつも「おいしいね」と言って食べたからである.その声とイントネーションは今も耳に残っている.躊躇したのは,イクの「おいしいね」がなく一人で食べておいしいだろうかと思ったからである.次の朝,デザートとして食べてみた.危惧した通り,やはり,記憶にあるほどおいしくなかった.あれはイクと一緒に食べたからおいしかったのだ.庭木の見えるイクの席は空席にしてある.まだイク喪失症が治っていない.
 生菓子はどうだろう.
 イクが生きている時には,イクを助手席に乗せてよく「とらや御殿場店」に行って生菓子を買った.我が家の生菓子はずっと「とらや」である.「買い物に行くぞ」と言うと,「イクも行く」と言って起き上がってついてきて,以前は店にも入ったが,要介護4になって,ここ一二年は,「ここで待っている」と言って助手席から降りなかった.田舎のお菓子屋は前の日に作って冷蔵庫に入れておいたのか底冷えするような生菓子も売るが,さすがに「とらや」の生菓子はそういうことは一度もなく,イクは「おいしい」と言って喜んで食べた.おいしいのは,一緒に食べるからである.どんなにおいしいレストランに入っても一人で食べると味気ない.おいしくないということである.イクを外が見える席に座らせて,斜め前からイクの食べるのを見ながら食べるのが一番おいしかった.「とらや」では「おはぎ」とか「粽」とかの季節のお菓子は必ず買ったが,「とらや」の生菓子はだいたい月に二回変わるので月に二回は買いに行った.特に楽しいのは,たとえば,「初出天保14年(1813)」のお菓子を食べるというようなときである.江戸時代の商家の旦那や奥方がほうばっている姿が目に浮かぶ.と,自分も江戸時代に「瞬間移動」(warp)して,その座敷にいて菓子を食べている.お風呂場では乳母が女の子を風呂に入れて体を拭いている.乳母がつるつるの小股を見て「とんと饅頭じゃ」と言う.女の子がすかさず「とらやのか」とあどけない声で尋ねる.これは「江戸小噺集」の中に入っている.室町時代から続く「とらや」のお菓子を食べると昔の人と経験を共有できる.これは古文を読むのと同じ楽しみである.70年ほど前に暗記した「昔,壁の中より求め出でたりけむ書の名をば,今の世の人の子は,夢ばかりも,身の上の事とは知らざりけりな.・・・」(『十六夜日記』)などが,頭に浮かぶ.「とらや」の生菓子は古文を読むように楽しいのだが,ただ,時々気になることがある.春なのに「おはぎ」と言うところである.春は「ぼたもち」である.「ぼたもち」はなんだか田舎臭い音のようだが,春に美しく咲く「牡丹」を見立てた餅で,漢字で書くと「牡丹餅」となる.しかも,古い小豆を使うので,地方によっては粒餡ではなく漉し餡で包む.秋のお彼岸に作るのが「おはぎ」である.これはその年に収穫した新しい小豆を使うので粒餡である.いつの間にか季節感が失われてしまったのかもしれない.それでも我が家ではお彼岸には必ず買ってイクと食べた.それから,いつも買うことのできる最中に「弥栄」というのがある.これには読み方が五種類くらいある.抽象名詞としては「繁栄を願う」という意味の場合は「いやさか」と読むのであるが,店員は「やさか」と言っているようである.「弥栄」を「やさか」と読むのは地名などに転用した場合である.まあ,有名な作家でも「正鵠を得る」と書かずに「正鵠を射る」と書くご時世である.どちらでもいいのかもしれないが気になる.「弥栄は生涯に一度出会うかどうかの漢字である.私もある時代小説で一度出会っただけだ.また,羊羹の「夜の梅」を長いこと「夜の桜」と言って売っていた.字のくずしから見て「夜の梅だよ」と言っても,頑固に「夜の桜」と言ってきかなかった.もう書道を習うような店員はいないのかもしれない.誰が訂正したのか,今は「夜の梅」と言っている.で,他にお客がいないとき,しつけの行き届いた女店員に,これだけいろんな漢字を使うのだから,入社試験に漢字書き取りはあるのかと訊いてみたら,「羊羹」と漢字で書けないと駄目だと言っていた.正しく読まないと昔の人と文化を共有できない.夜の桜は「夜の桜」とは言わない.「夜桜」と言う.そうそう,3月末から4月初旬の期間限定で京都の和久傳が「夜桜」という水羊羹を売る.水羊羹に小さな外郎を浮かせたものだが,これは美しくておいしい.家の庭には山桜や枝垂桜などあるが,もう一本,農協の研究員が「これが日本で一番美しい桜です」と言って植えてくれた桜が咲くころ注文して送ってもらう.和久傳は季節を感じさせてくれる.春には「春の苦み」などを売る.春,植物が苦いのは,生物学の先生によると,動物に新芽を食べられないようにする知恵だそうである.植物にも季節の味があるのだ.大根や白菜が冬においしくなるのは凍らないように糖分を増やすからだそうである.「とらや」で残念なのは,御殿場店では6月30日に「水無月」を売らないことである.仕方なく,御殿場の太田屋とか,沼津に本店のある雅心苑などで買って食べている.
 認知症のイクを10年以上も世話している内に,それまで一度もしたことのない料理というものをすることになった.認知症は不思議な病気で,パン屋さんでパンを勝手にとって食べて無銭飲食したり,徘徊して転んで救急車のお世話になったり,普通ではない行動をするが,イクの場合,色の感覚や味の感覚は正常で,しかも感想の言葉も正しかった.それで,食べ物には季節感を出して,混乱させないようにしようと思った.だから,今では冬でも店に並んでいる茄子は夏と初秋にしか食べさせなかった.ナスを焼いて皮をむいて味噌汁にしたり,ナスを切って焼いて,たっぷり皮ごとショウガをすってお醤油と出すと,イクは「おいしいね」と言って食べた.春には「鰆の粕漬け」を買って食べさせる.イクは「おいしい」と言って澄んだ目を私に向けた.先日行った日本料理屋では11月なのに鰆が出た.11月は寒くなるので油がのってウナギとかアナゴがおいしいのに.鰆は一応冬と春が旬の魚となっているから,冬の先取りなのだろうか.魚偏に春なのだから春に食べたい,料理の記事を読んだり番組を見たりすると,冬なのにタケノコやナスやキュウリを使う料理が紹介されたり,お砂糖で味付けしたりする.今は店を閉じて湘南に移ったが,御殿場に店があったとき,そこの旦那は娘が小学校に入学するに際して「娘の舌を壊したくない」と言って,お昼は家から弁当を持たせるのを許可してくれと学校に掛け合っていた.砂糖を使った給食など食べさせたくないと頑張ったのである.我が家でも料理に砂糖を使ったことは一度もない.戦後「砂糖の消費量は文化のバロメーター」と言って,何にでも砂糖を使うようになった.イクの母親は静岡では有名な料亭の一人娘だったが,普通出される甘ったるい「すき焼き」を「あれは書生鍋だ.本当のすき焼きではない」と言っていた.イクはその娘である.若いころから季節を加えたおいしい料理を作ってくれた.たとえば,秋になると松茸が出る.普通,松茸ご飯を作る時には「和風だし」などを使うが,イクは松茸の香りと味を大事にしていたので使わなかった.自分で味を造った.また,豪快に松茸を使った鍋を造ったが,それを食べるために「来年度の事業計画を練る」という口実で,新宿からロマンスカーで我が家まで出かけてくる役員もいた.だから,イクには特に気を付けて季節の料理を造ってやった.丸い澄んだ目で私を見ながらイクは食べた.空豆が好きだったので,旬の時期にはゆでて食べさせる.最近は中国産ではなく千葉産のハマグリが出ていたので,それもその時期に酒蒸しにして食べさせた.秋になるとサンマを焼いてやった.冬には,氷見のぶりがある時にはぶり大根を食べさせた.魚屋に頼んで,沼津港でアンコウがあがったときには一尾買ってさばいてもらって食べさせた.
 イクが死んでから,私は料理を作る意欲を失った.朝は,野菜ジュース一本に塩コショウでゆで卵一個,ヨーグルトとボケ予防のゴマ入り豆乳DHAと果物,お昼はお茶とおにぎり一個,しかし,最近は朝だけで,あとは時々「木の実」をつまむだけになっている.食事は誰かと一緒でないと味気ない.誰かが訪ねて来たら,一緒にレストランへ行くとか,寿司屋に出かけるとかすればそれでいい.それで,まあ,週に一回はまともな食事をするために,月曜日にはイクお気に入りの看護師だった女性に来てもらって,お昼を提供して談笑することにしている.先日,秋なのでサンマの塩焼きを食べた.私は反応がちょっとゆっくりなので困るのだが,魚屋で「特大・北海道産」というサンマを二尾買ったとき,なんとなく違和感を感じた.焼いて食べ終わって,やっと違和感の原因がわかった.サンマが昔のように太くないのである.油がのっていなくて細すぎる.地球温暖化のせいで海流が変わったのか,今ではまともなサンマが獲れないのだろう.
 その失敗を挽回したいと思って,それから何週かして「ぶり大根」を造った.昔,金沢の料亭で食べた味を思い出して,ぶりを買い,大根は前の日からクロックポットで柔らかく煮て組み合わせた.料亭とほぼ同じ味が出せておいしかったのだが,切り身が薄かった.最近は値段を据え置くために量を減らすのが当たり前になっている.食べ物では量のバランスが大事である.昔,銀座に久兵衛が寿司屋を開いた.魯山人が招かれ,久兵衛が魚の切り身をベロっと厚い布団のように乗せて出して「どうだ」と得意げに言うと,魯山人は「シャリと魚のバランスが悪い」と言ったそうで,久兵衛はそれからごはんと魚のバランスを考えて魯山人に供したそうである.御殿場で寿司を食べるとなると,駅前の「妙見」くらいである.もう60年ほど食べているが,バランスの良い寿司を食べさせる.御殿場は観光地でもあるので,周辺にいくつも回転寿司があるが,そこの寿司は魚を厚い布団のようにのせた漁師飯で寿司ではない.昔,父親の郷里の鳥取県の網代港から漁船に乗ったことがあるが,船の上で漁師たちと食べたお昼と同じである.初めの頃は回転寿司もおいしいものを食べさせてくれた.アウトレットの中にある回転寿司では,「今朝入ったタラです」と言って,皮を上手に焼いて出してくれた.イクも一緒に食べて.おいしかった.
 現在の日本は貧しい国になってしまって,物は昔通りあるのだが,物と量のバランスの悪いもの,形は同じだがまずいものが多くなっているし,ハウス農法のせいか,野菜や果物の季節がめちゃめちゃになっている.秋なのに桃など売っている.イクに季節を感じさせながら食べさせるのに苦労した.昔私がシドニーの大学から来て教えないかと誘われたとき,イクは「真夏にクリスマスのあるようなところには行きたくない」と言ったので断ったことがある.イクにとって紅葉を見ながらトマトを食べるなどありえない.夏以外は,トマトは缶詰かジュースだろう.最近は暑い日が続いてすぐ次に寒い日が来るようになった.冬が終わるとすぐ夏になって春が短く,秋も短くなった.我が家の楓もモミジも色づいてまたたく間に散っていく.春にはモクレン,水仙,利休梅,櫻,ナスタチュームが同時に咲くようになった.おかげで,火葬のときイクの身体を多彩な花で囲むことが出来たのだが,口が利けたら怒ったかもしれないなと今頃気づいている.罪滅ぼしに,お骨の置いてあるイクの部屋には,花の好きだったイクのために,花職人村松のようになりたいと言っていたフローリストババに2週に一回来てもらって,季節の花をたくさん生けて貰っている.しかし,日本の季節は壊れて,今年は,庭の西洋彼岸花も日本固有の彼岸花も咲くには咲いたがすぐ終わった.花も苦労しているのだろうな.イクが好きだったきれいな庭にするために,今週の土曜日には庭の手伝いの後藤さんに,水仙の球根を40球植えてもらおうと思っている.来春,真っ先に咲いてほしい.

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